一流万金談②~長生きの薬を求める金持ちを描く蔦屋重三郎の出版物
「これを食べたらだめだ」「あれを食べたらいい」と健康志向の人がいるが、昔も長生きがしたく、金の力で薬を手に入れ長生きしようとする主人公を描いた大人の絵本。
「一流万金談」(1781蔦屋重三郎刊)は、朋誠堂喜三二作、北尾政演画の黄表紙。ちなみに、北尾政演は、後に江戸を代表する作家となる山東京伝(1761~1816)の浮世絵師としての名前である。
朋誠堂喜三二は、本名平沢常富(1735~1813)、秋田佐竹藩の江戸留守居役という上級武士であった。浪人者であった平賀源内(1729~1780)から始まる戯作の作者は、武士が多かった。しかし、これらの武士は、寛政の改革とともに戯作の世界から消えてゆく。
武士が黄表紙の世界から消えて、町人の京伝たちが文壇の中心となっていくが、それは後の話。この時代は、武士と町人が黄表紙界や狂歌界で共に活躍していた。
長生きの薬を求める、主人公六十四郎は、どうなるか。
下巻
九
高尾「六十さんや、さあ、足袋をさしあげましょう。これでご用はおすみでしょう」
六十四郎「まずそれで用は隅田川。しかし、あまりにも高い足袋だ。高い代金のおまけに、ちょっと俺と寝る気はありやなしや」
高尾「足袋さえはけば、わたしの用も隅田川。主と寝るのは、いやこ鳥でありんす」
十
木屋竹右衛門「刀の先のやすり粉、十五匁(約56g)必要とあらば、刀一本では足りませぬ。二本お買いなさいませ。正宗でも宗近でも、刀の先がなければ、天狗の鼻がないようなもの、後で返されても二束三文にしかなりませぬ。まあ、二本で百疋(=千文=金一分=一両小判の1/4)でしょう」
六十四郎「それならば、一分引いて、二本で千九百九十九両三分か」
万八「流沙川の水と、魯国の生姜、ただ今到着いたしました。さて、こうして見ても、二千両とは高いものだ。このフラスコのほうが高そうだ。生姜も、国産の安いものより小さい。それからみては、正宗二本で二千両弱とは掘り出し物でございます。
旦那様、そのやすり粉ができれば、薬種十三種そろいます。善は急げじゃ、早く薬を煎じてお飲みなさいませ。人の命は待ってはくれず、もし明日死ねば、大金を使っても、お金がすべて、ちゃらになります」
十一
六十四郎は、薬種ことごとく集め、支払いの段になり、まず正宗が二千両、古法眼が五十両、王羲之が二百両、井戸の茶わんが百両、獅子が三千両、錦の布が五百両、古近江が五十両、鮫が三百両、人参が三百両、しめて六千五百両のところ、医者の千両と欲心坊の二千両、高尾の千五百両は前払いゆえ、このたびの支払いに、ちょうど千両たりず、六十四郎がいろいろわびても、誰も聞いてくれないので、しかたなく、家屋敷、家財道具一式、すべて渡して、ようやく承知してもらう。
具兵衛「千両のかわりに家屋敷では、少し足りぬが、なじみの方だから承知いたしましょう」
角兵衛「早く見積もりをしてもらいましょう」
源六「ちりや葉っぱ一枚も持って出てはならぬ。着ているものだけは許しましょう」
太鼓「早く明け渡して、どこへでもござれござれ」
肌右衛門「百まで生きるなら、これくらいの難儀はなんのその。もう、あきらめなされませ」
十二
六十四郎は、百まで生きる薬は飲んだけれども、家屋敷、家財道具一式をなくし、ようやく木屋竹右衛門の方より返ってきた、二千両のおつりの百疋(一両小判の1/4)を持って、「江戸で失敗したら銚子へ行けばよい」だろうと、銚子をめざして歩けども、十日もたたぬうちに乞食となる。
なんとも無惨や六十四郎、生きる望みもなくなれば、フグを食べて死のうと、フグ毒を煮て、拾った米に、道ばたのタケノコを入れて食おうとするのは、なんともあわれなことなり。
万八、銚子へ向かい、この様子を見て、調理ずみの無毒のフグ料理と入れ替える。
十三
六十四郎「これだけ毒を食っても、なんともないとは、長生きの薬がききすぎたか。悲しや悲しや、死ぬにも死なれぬとは」
万八「あの様子を見ては、もうどうしようもない。たねあかしをしようか」
十四
万八「あなたが、あまりにもだらしないゆえ、大旦那様の計略で、あなたに難儀をさせて、心を入れ替えさせようという親心、けっして悪くは思いなさいますな」
角兵衛「蜀江の錦は、ただの古い布きれ」
竹右衛門「正宗のやすり粉は、砂鉄でござりました」
長庵「獅子の目玉は、ケシつぶに金粉をかけました。その細工は、すなわち私長庵」
源六「人参を焼いたものは、タドンの灰」
太鼓「わたくしのは、赤い塗料のカス」
肌右衛門「鮫の親粒は、トウモロコシ」
四郎兵衛「高尾と申したのは、私の女房」
具兵衛「井戸の茶わんは、割れたとっくりのかけら」
欲心坊「フラスコは、私が自腹で買ったもの。生姜は、去年の煮豆の残り」
道六「福禄寿は、大津土産の大津絵。寿の文字は、すなわち私が書いたもの」
六十四郎「さては、家屋敷、家財道具一式も元のままで、ふたたび家へ帰られるのか。やれやれ、うれしやうれしや。あまりにありがたき父上のお志し、これはまあ、夢ではないか」
十五
徳兵衛「とかくわがままをすれば、いつもあのとおり、人は人に気をつかわなければなりませぬ」
六十四郎「父上のお志し、ありがとうぞんじます」
万八「おめでとうござります」
あけましておめでとうございます
喜三二戯作
画工 北尾政演(北尾)
黄表紙は、正月に発行されるので、めでたい話が多い。こういうマンガの原型のような作品を、江戸の人々は楽しんだ。
現代の我々も楽しめるように、訳はかなり意訳にしている。
楽しんでいただけたでしょうか。
ちなみに、蔦屋重三郎が自力で「吉原細見」を出版した安永四年1775に、恋川春町が「金々先生栄花夢」を刊行し、黄表紙が始まっている。黄表紙の発展と蔦屋重三郎の活躍は同時に進んでいた。
黄表紙と同じように、武士と町人が、こちらは一緒に集まって作っていたのが狂歌。狂歌についてはこちらも、
町人が中心であったろう川柳をまとめたものはこちら、