人間の心が機械になる日
東ヨーロッパや中東で紛争が続く。ニュース映像を見れば、ミサイルが飛ぶ画面や、ドローンが飛ぶ場面は、まるでゲームの画面のようだ。その戦火の下で、我々と同じ、呼吸をしている人間が血だらけになっている場面が、テレビ画面からは想像できない。やり直しのきくゲームの一場面としての認識しかない。やり直しがきくから、平気でいくらでも人を殺す。一人の人間を殺せば殺人犯だが、多くの人間を(戦争で)殺せば英雄になる、といわれるゆえんだ。
人間の心には、というか、人間の脳には、生物を感じる部分と、無生物を感じる部分が分かれているそうだ。生物を感じる脳の部分が損傷すれば、生物を認識できなくなり、生物の名前も出てこなくなる。
我々ニンゲンは、牛のやさしそうな目や、ミニブタのかわいいしぐさに心癒やされるが、パックに入って売られている牛肉や豚肉に、生き物のやさしさは感じない。だから平気で食べられる。切り身の魚が、川や海の中をスイスイ泳いでいる場面は考えないから、平気でパクパク食べられる。今どきの子どもたちは、魚の切り身と、水族館で水の中を泳ぐ魚とは別のものだと思っている子もいる。ウソのような本当の話だ。
人間の脳が、どうして生物と無生物を分けて考えるようになったのか。
これは、ヒトという生物が、長く狩猟採集生活を続けていたために、何万年もかけて脳が進化した結果なのだ。ヒトという生き物は、獲物を得るための鋭いツメやキバを持っていない。すばやい足も持っていない。そんな生物が狩猟をするためには、獲物となる生物の特徴を知らなければならない。ウサギはこういう性質を持っているので、こんなところにワナをしかければいい。イノシシはこんな動きをするので、イノシシを狩るときにはこんな行動をしなければならない。そんなことを学ぶために、脳の中に、生物に関するだけの部分ができてきた。他の生物のことを知ることによって、多くの獲物を得、生き残ることができた。
人間の子どもは、生まれてから、生物とふれあいながら、脳のその部分を発達させていく。
テレビを見ない現代の子どもたちはYouTubeを見る。子どもの見ているYouTubeには、人間か機械かわからないキャラクターも出てくる。それをジーッと見ている子どもたちの脳内はどうなっているのだろう。そのキャラクターを生物として見ているのか、血の通わない無生物として見ているのか。何万年もかけて進化してきた人間の脳は、たった数年、数百年では変化しない。生物と無生物を区別するヒトの脳が、YouTubeのキャラクターやAIを、どう認識しているのだろうか。
少なくとも、ミサイル攻撃をしている人間の脳内では、相手が生物だという認識はないのだろう。相手がパック内の牛肉か、パックに入った魚の切り身だとしか思わないから、まわりから見たら残酷なことが平気でできる。B29の上空から見下ろす町に、血の通った生物がいるとは思わないから、平気で多数の爆弾を投下することができた。そもそも、差別の国の人は、有色人種を人間だと思っていなかったのだから、長く黒人差別をし、日本人を大量虐殺できたのだろう。
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人間が人間の心を持つためには、YouTubeを見るだけでなく、もっと自然に触れなければならない。それができなければ、せめてYouTubeで、自然をあつかった動画を、親が責任を持って見せなければならない。まあ、ドラえもんやクレヨンしんちゃんの恐竜のアニメでも、無生物を見るよりはマシだろう。
自然の中で生まれ、自然の中で生きる人間は、機械の中だけでは生きられない。脳内だけでなく、外部の視覚でも、森の中で何万年も生活してきたヒトは、森の木の葉の色である「緑」を見ると心が落ち着く。血圧や心拍数、筋肉の状態、脳波などがリラックスするそうだ。だから、緑のない、自然のない生活は、だんだん心に悪影響が出てくる。
人間の心を保つためには、自然とふれあうことが大切だろう。
人間の心を取りもどすため、スマホ画面から離れて、一歩、自然の中へ入ってみよう。
この文章は、「鳥取環境大学」の森の人間動物行動学、小林朋道さんの「先生! シリーズ」番外編「先生、脳のなかで自然が叫んでいます!」(築地書館)の読書感想文となっています。