言葉の蛇口〜『離さないで』という言葉を
ある村に喧嘩の絶えない夫婦がいた。
朝から晩まで皮肉や非難の応酬で、呆れるほどであった。
近所の人が2人を長老のところへ連れて来た。
事情を聞いた長老は、「そんなに相手のことが気に入らないのなら別れたらどうか」と勧めたが、
2人は「そういうことではないのだ」と言って、
お互いに相手が悪いのだと言って譲らない。
そこで長老は2人をその村の中央にある井戸の前に連れて行った。村の人たちも集まってきたのを見て、長老は言った。「いい機会だから。みんなも一緒に聞きなさい。この若い2人が、毎日、罵りあっていることは知っているね。なぜこの2人が言い争いをやめられないのかを、教えてやろう。娘よ、井戸の中から水汲みの桶を引き上げなさい。」
女は慣れた様子で綱を引き、カラカラと滑車を回して桶を引き上げた。
長老は桶の水を井戸に戻してこう言った。
「息子よ、この桶の中に入りなさい。」
男は首を傾げながら桶の中に足を入れた。
「娘よ。綱を離さないように、しっかりと持っていなさい。」
桶に乗せられた男は深い井戸の上に吊り下げられた状態になり、女はその綱を離さないように握り締めている。少しも経たないうちに女の手が震え出した。男はその様子を見て、「おいっ。手を離すんじゃないぞ。」と叫んだ。
長老は何も言わない。2人の間でギシギシと滑車が音を立てている。「もう、無理です。助けておくれ」と女が叫んだところで、長老は村の人の手を借りて男を引き上げた。
「息子よ、今度はお前が綱を持ちなさい。」
「娘よ、お前は桶の中へ。」
今度は女が吊り下げられることになった。
しばらくすると、男の手が震え始めた。
「いつまでこうしていればいいんです。もう、無理ですよ。」
それを聞いて女は叫んだ。
「お前さん、手を離さないでおくれよ。」
長老は何も言わない。村人は固唾を呑んで見守っている。
「だめだ、もう、だめだ。助けてくれ。」
男が叫んだところで長老は、村の人の手を借りて女を引き上げた。
長老は、地べたに座り込んだ2人と、村の人たちに語り始めた。「今、見たように、私たちは井戸の上に吊り下げられた状態で生きているんだ。
家族や友達が、綱を離さないでいてくれるから生きてゆける。自分の命を他者に預けているんだよ。吊り下げられた人間には、『離さないでくれ』と懇願するしかできない。脅しなんて、本当は何の意味もないんだ。」
長老は、2人の肩に手を置いて語りかけた。
「お前たちは、今日のことを忘れないで生きてゆきなさい。自分の存在は、相手の手の中にあるのだということを忘れてはいけないよ。お前たちは、これまで、お互いに相手を責めたて、罵りあってきた。まるで、『言うことをきかないと、手を離すぞ』とでも言うように。それは、宙吊りの桶の中から綱を握る相手を脅していたようなものなんだ。『手を離すな』なんて脅しても、離すかどうかを決めるのはその相手なのに。いつも、宙吊りにされた時のことを思い出しなさい。そして、『手を離さないでおくれ』という意味の言葉を心がけてゆきなさい。」
長老は村の人たちに語りかけた。
「わしらは誰であっても、自分1人では生きてゆけない。綱を離さないでいてくれる人が必要なんだよ。それはお互いさまのことなんだ。わしらはいつも、綱を握っている自分のことばかりを考えて、威張り散らしたり、恩着せがましくしてしまうけれど、お互いにそうしていたら、みんなひとりになってしまうじゃないか。さっき見た、宙吊りにされた2人の姿を忘れてはいけないよ。あの宙吊りにされて、命を預けているのが、わしらの姿なんだ。それともうひとつ。相手の重さに耐えながら、綱を握りしめていた姿と、重さに耐えられなくなって助けを求めた姿も覚えておきなさい。
わしらは、お互いに、相手の言葉や振る舞いに耐えながら生きているんだ。綱を手離せればどんなに楽だろう。そう思うことがあったとしも、相手の重さに耐えながら震える手で綱を握りしめて暮らしていかなばならない。人は自分1人では生きてゆけないけれど、誰かと一緒に生きてゆくのも決して楽じゃないんだ。どうしても辛いときは、『もう、ダメだ』って声をあげればいい。その時は、村の仲間で助け合えばいいのだから。」