
異邦人:久保田早紀(デビュー) - その1 -
ユーミンの「翳りゆく部屋」で東京カテドラル教会のパイプオルガンの話をしました。大聖堂の隣にカトリック関口教会があり、そこで音楽会が開かれています。行ったことはないのですが、通勤途中に貼り紙を良く見ます。数年前、何気で見ていましたら「久米小百合」の名前があり、「これ久保田早紀だよね」と思ったことがあります。
1979年、久保田早紀の出現は衝撃的でした。
透き通るような美人で、エキゾチックな曲「異邦人」とのギャップ、中学生の私は本当にドキドキしたものです。「異邦人」は今聴いても素晴らしく、今でも良く聴く曲の一つです。昨年、東京新聞「100年の残響 昭和の歌物語」に「異邦人」の特集記事が掲載されたので、こちらの内容に加え、以前調べた内容も加味して、私なりの「異邦人」を書いていきたいと思います。
■デビュー
久保田早紀のデビューのキッカケは、「異邦人」リリースの前年(1978年)、短大在学中にエントリーしたアイドルの登竜門「ミスセブンティーン コンテスト「(主催:集英社・CBSソニー)だったそうです。ちなみに、同年に同コンテストに応募してデビューのキッカケを掴んだのが松田聖子。
久保田早紀はユーミンや矢野顕子に憧れていて、同コンテストはポプコン(ヤマハ ポピュラーソング コンテスト)のようなシンガーソングライターの登竜門のコンテストだと思って、勘違いで学生時代から書き溜めていたオリジナルソングで応募したそうです。送った自作のデモテープがCBSソニーの金子文枝プロデューサー(当時)の目に止まり、デビューへ向けた曲作りが始まりました。もともと作曲家志望だったようです。
この曲は、美しい並木道並木で知られる国立駅前の大学通りの景色をイメージして書かれたものだそうです。
当時、短大2年生だった久保田早紀が、自宅のある八王子から、中央線を利用して都心まで通学していました。ある日、車窓からボンヤリと外を眺めていたら、空き地で子供たちが空を見上げ、手を広げる光景が目に入りました。歌い出しは、歌詞作りに悩んでいたとき、自身の通学で乗っていた中央線から見える国立駅近くの景色を電車から見て咄嗟に写しとったものだそうです。「そんな、ふとした瞬間に出来た曲」と本人が話しています。その時のタイトルは「白い朝」だったそうです。
子供たちが空に向かい 両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
■白い朝
それから間もなく、先に出来上がっていた詞に曲を付けて「白い朝」が完成します。しかし、金子プロデューサーは一聴して「このままでは、デビュー曲としてのインパクトに欠ける」と判断します。
祈りの声 ひずめの音 歌うようなざわめき
私を置き去りに過ぎてゆく白い朝
ただ、メロディはどことなく異国情緒が感じられたそうです。
理由を聞くと、ソニーの海外駐在員だった父親が単身赴任でイランに駐在していて、時おり中東の音楽テープが送られてきて、普段から良く聴いているという話を聞き出しました。折しも、時代は女性の海外旅行がブームになり始め、音楽の世界でも庄野真代「飛んでイスタンブール」、ゴダイゴ「ガンダーラ」、ジュディ・オング「魅せられて」など、異国情緒を感じる曲が増えている時代でした。そこで金子プロデューサーは、ポルトガルの民族歌謡 「ファド」 をコンセプトに、アレンジャーの萩田光雄にエキゾチックな編曲を依頼します。
■タイアップ
ちょっと前(70年代前半ころ)までは、深夜放送から数多くのヒット曲が生まれたりしましたが、この当時(70年代後期)のヒット曲はCMやドラマなど、タイアップが多くありました。
「白い朝」の完成がようやく見えた時、三洋電機の新しいカラーテレビのCMが企画されます。三洋電機の宣伝担当 亀山太一が電通と協議して決めた新CMのテーマが「シルクロード」でした。
CMソングのコンペが行われ、電通が用意したのが井上陽水、大橋純子、久保田早紀の3人で、久保田早紀のみ無名の新人でした。普通なら完全に負けてしまう状況ですが、久保田早紀の推薦人に付いたのが、CBSソニーの敏腕プロデューサー 酒井政利です。亀山太一は楽曲が気に入ったのもあり、酒井政利の提案に乗り、「白い朝」で行くことを決めます。
さらに酒井政利は「インパクトが弱い」、「イメージが伝わりにくい」といった理由から、タイトルを「異邦人」に改題します。
久保田早紀自身は改題に反対しましたが、通りませんでした。
亀山太一は、曲の最後の歌詞「ちょっと振り向いただけの異邦人」をキャンペーンのキャッチフレーズにするよう指示します。三洋電機はポスターやカタログ・屋外広告・パッケージに曲の歌詞とシルクロードの代表的なシーンを掲載、CMの放送前から社内・営業所・販売店でテープを流し、放送後は葉書によるリクエスト参加を呼びかけるなど、社を挙げて曲のプロモーションを展開した結果、予想外に当初の見込みより、短期間での大ヒットを記録しました。シングル・レコードの総売り上げ枚数は、144.4万枚とされています。
■酒井政利
ここで本題からそれますが、CBSソニーの敏腕プロデューサー 酒井正利について話したいと思います。
大学卒業後、松竹に入社し、その後日本コロンビア、CBSソニーの音楽プロデューサーとして数多くのミュージシャンを発掘します。南沙織をはじめ、フォーリーブス、郷ひろみ、キャンディーズなどがいます。最大の酒井作品が山口百恵。「異邦人」の改題の話をしましたが、この前にも楽曲の改題を自ら行って大ヒットさせた作品があります。山口百恵の「秋桜」です。
山口百恵は最初、宇崎竜童、阿木燿子のツッパリ路線で売り出しましたが、酒井政利がそろそろ違う路線で歌を出したいと考えました。そのとき目を付けたのがさだまさし。さだまさしの楽曲を高く評価していた酒井政利は、曲の依頼をします。そのころの、さだまさしは遅筆で有名でした。業をにやした酒井政利に尻を叩かれて、やっと出来た作品が「秋桜」です。
以降、さだまさしが話していた内容です。
さだまさしが最初に付けたタイトルが「小春日和」。歌詞の中に「秋桜」と書いてルビに「コスモス」と書いてある記述に目を付けた酒井政利が、「これをタイトルにしよう」と言って改題したものです。ちなみに、それまで「秋桜」と書いて「コスモス」と言う習慣はありませんでした。コスモスの和名「あきざくら」というのが正しかったそうです。しかし、この曲のヒット以降「秋桜」は「コスモス」というのが一般化してしまいました。「秋桜(コスモス)は半分酒井さんの作品」と後にさだまさしも話していました。凄いですね。日本の文化までも変えている・・・。
さらに余談。酒井政利の弟子に若松宗雄というプロデューサーがいます。この人は後に新たな企画制作部を立ち上げ、松田聖子を育て上げます。1980年代に入ると弟子と師匠の関係が逆転してしまうほどの松田聖子ブームを作ります。今、シティ・ポップが世界的なブームですが、1970年~80年初頭は、1人のアーティストのみで出来た作品ではなく、関わり合った人の全てが「良いものを作りたい」という情熱で普遍的な作品を築いていったからこそ、現代でも耐えられる作品になっているのだと、良く分かります。
まだまだ続きます。