じいちゃんばあちゃんの素麺人生
瀬戸内海に小豆島という牛型の島がある。そのちょうど牛の頭のあたりに位置する田中製麺所が私の祖父母の家だ。毎年のお盆や年末年始になると、私の家族は叔父さん、叔母さん家族とともに祖父母の家に集まる。夏はBBQ、冬はカニ鍋にすき焼き、オードブルも並べて、必ずみんなで食卓を囲む。年越しはこたつで『紅白歌合戦』を見て盛り上がり、年が明ける少し前に、寒さに身を寄せ合いながら近くのお寺で除夜の鐘を鳴らして新年を迎える。元旦の朝は、祖母の作るお雑煮の優しいだしの香りで目覚め、祖父がお年玉を配ってくれる。お墓参りに、五社巡り、餅つきをして、座敷でお笑い番組を楽しんで一日を過ごすと、翌日はテレビで箱根駅伝を楽しみながらフェリーに乗って、岡山県の最上稲荷を参拝する。この習慣は変わらない。毎年の恒例行事だ。私はいつもこうして一年のスタートを迎える。
祖父母の家が素麺工場であることは小さいころから知っていた。お盆に遊びに行った日のお昼ご飯は、決まって天ぷらを浮かべた素麺をいただく。ただ思い返してみれば、食べるばかりで私は祖父母の作った素麺について何一つ知らない。よくよく考えると遊びに行く日はもちろん休みで、素麺を作る祖父母の姿すら見たことがない。どのような経緯で素麺を始め、そこにはどんな苦労があったのか。今回私は、祖父母が営む素麺場、田中製麺所の誕生について取材した。
素麺工場内の様子
素麺との出会い
素麺を始めるきっかけは、なんでもない、突然で偶然の出会いだった。当時の祖父は29歳。素麺工場を開くまではトラックに乗って、運送の仕事をしていた。しかし長距離運転手の仕事は腰が痛くて大変で、先の長い仕事ではない。その上、私の母も叔父もまだ小さかった。乳幼児を抱える父としても、事故のリスクを考え、大工さんの手伝いに転職した。
ある時、仕事先の池田町(2006年隣町の内海町と対等合併し現在は小豆島町)で電話が必要になったことがある。当時は携帯電話がなかった時代で、公衆電話も見つからなかったため、祖父は近くの男性に声をかけて電話を借りた。そこで話が盛り上がり、男性から「あんた月どのくらいもらっとるんや」と聞かれ、「それやと少し素麺するだけですぐに追い越すぞ。若いのに、この先考えて人に使われるより自分で素麺した方が儲かるよ」と勧められたという。ちょうど横には素麺工場があり、男性はそこの人だったようだ。仕事を終えた祖父はそのまま、素麺組合に向かった。当時の様子について祖父は「すぐ話に飛びついたわ、今どきあんなにいい人はおらんじゃろな。ぜんぜん知らん人にあんなに教えてくれて。ほんま親切やった。丁寧で」と笑って語る。
数日後、素麺組合の人が家にやって来た。素麺は、希望した人、皆がすぐにできるものではなく、家で素麺を作れるかを判断し審査する必要があった。この審査に通らなければ話にならないが、「これだけ敷地があったらできるから、したらいいよ」と一発合格だった。第一関門を難なくクリアした祖父は、祖母の意見を聞くまもなく、これまで以上に急ぎ足で準備に取り掛かった。本人ですら「意見なんぞ聞いとらんかったわ。俺が一人で始めたわ」と話す。祖母も「もう私は、じいちゃんが決めたらついていくしかないわ」の一言。祖父母の話を聞いた私は、とにかく心に決めたら、真っすぐに突き進む祖父の姿に感心したが、突然の方向転換に戸惑いや不安を見せず、文句を一つもこぼすことなくついてきた祖母の強さにも感動した。
立ちはだかる困難
組合から始めるための権利は得たものの、物事がすべて順調に進むことはなく、資金と知識不足に苦労した。本格的に素麺を始めるとなると、まずは最低限の設備を整えなければならない。乾燥室を設け、すべての機械を一から導入する必要がある。乾燥室は、農業の際に使用していた納屋をリフォームしたが、機械は最低でも1台100万円、高いもので300万円を超えた。機械導入費だけでも1000万円はかかった。できる限りの資金を準備するために畑の土地は売りに出し、足りない分は農業近代化資金や農業協同組合から借り入れた。
設備がひと段落して次に待っていたのは、圧倒的な知識の欠落だった。祖父には指導者がいなかった。小豆島素麺と言えば池田の素麺を指す。もともと池田では素麺が有名で400年もの歴史があるブランド素麺「島の光」をまとめる素麺組合も池田町に位置していた。一方、祖父母の住む土庄町伊喜末は、農業や運送屋ばかりで、当時は周りに素麺を製造する者は一軒もなかった。やる気と時間と設備はあっても何から始めなければいけないのかわからず路頭に迷っていたところ、素麺を教えてくれた男性の紹介で池田へ素麺を習いに行けることになった。製造技術習得に向けて、祖父は数か月間毎日早朝から池田に通い、必死に知識を蓄えたが、いざ自分たちだけで素麺を作っても、上手くいかず、失敗と借金ばかりが増えていく毎日に焦りを募らせた。そんな時、素麺業を引退し、個人で教えて回っている人がいるという噂を聞き、早速10日間雇うことにした。するとようやく形になり始め、なんとか組合の商品として販売ができるくらいにまで成長した。
こうして1971年11月25日に、田中製麺所が始まった。「ゼロからではなく、大きくマイナスからのスタートだった」と祖母は話す。
苦労と努力の毎日
ここで素麺業の基礎を確認しておきたい。素麺作りは朝の2時から始まり、生地を作って伸ばして、乾燥させる。14時頃から日頃私たちが見慣れた長さに生地を切り、箱詰めした後、次の日の仕込みを行い、16時頃仕事を終える。天候や気温・湿度が生地の状態や乾燥の速度に大きく影響するため、日によって差は生じるが、順調に進んだ時はこのような流れになる。また、素麺の元となる小麦などの原料は組合から購入するが、その際、例えば粉1袋25キロに対して1.4キロの素麺を納めるといった決まりがあり、基準を満たせない場合は足りない分だけ罰金が課せられる。ただし納める量以外の素麺は自由とされており、小売りなどを行って利益を出せる仕組みになっている。
少しずつ素麺の製造に要領を掴み始めていたが、まだまだ失敗続きの毎日で、利益が出るほどの生産量はなかった。祖父は今でも、素麺は毎日が勉強だと言っている。当時は「ぜんぜん素麺にならんくて(生地を)山に捨てに行ったこともある」「(作業が)終わらんくてな、晩御飯食べた後、もう一度素麺工場に戻って、真っ暗の中、素麺を切る作業してたこともある(現在は14時頃から行う作業)。一回とかやないで、そらもう何回も失敗した」と祖父は苦い顔で振り返る。それでもめげずに頑張った。現在は1日に15箱、多い時で18箱ほど生産するが、当時はどれだけ頑張っても3箱が精一杯だったという。朝早くから始めて、遅くまで面倒を見てやっと完成させる。そしてまた次の朝がやってくる。「いつ寝てるんや」と祖母の母(曾祖母)からは心配されていた。そんな一朝一夕にはいかない様子に、周りからは「若いのが眠たいのに、ずっと朝からでけるんか。続かんわ」と笑われ、馬鹿にされていたという。どうしてそんなに頑張れたのかと問うと祖父は、「生活がかかっとるから。ひたすらに素麺の面倒を見た。それしかないし、やるしかなかった。全部捨てて始めたことなのにそう簡単には引けへんわな。覚悟をもって始めとんやから」と低く真っすぐした声で話した。
乾燥中の素麺をチェックする祖父
一年もすると、安定して5箱の生産が可能になった。その頃から祖母は、素麺の製造業務に加えて小売りの営業を始めた。家にある名簿をもとに片っ端から電話をかけ、近所や知り合いにも買ってもらうよう頼んだ。また常設販売や定期購入をしてもらえないかと人脈を最大限に利用しながら、あちこち走りまわった。「紙を買うお金もなかったから、請求書の裏にはお礼と感謝の気持ちをたくさん書いて、最後は必ず他にも欲しい人がいたら紹介してくださいとお願いする文を添えた」と祖母は話す。こうして苦労を重ねながらコツコツ頑張った。少しずつ安定して利益を出せるようになってくると、周りは「決まった時間に縛られて、給料も決まっているサラリーマンよりも、自由に時間を使える素麺のほうが、割が良い」と噂を始め、気づけば近所に素麺場が20軒ほど増えていたという。
成功の秘訣
祖父母は口をそろえて「始める時期がとてもよかった」と話す。田中素麺場が始まった1971年、日本は高度経済成長期の真只中で、銀行も今とは比べ物にならないほどに金利が良かった。どの産業も上向きに成長し、小豆島の素麺組合もその一つだった。「頑張って生産するほどよう売れた」と2人が言うように、素麺の需要は伸び、供給も追い付かないほどだった。また需要の高まりには、日本経済が良かったことに加えて、全国にブランド素麺がほとんどなかったことや、今でこそ大人気のラーメンも存在感が薄く、競争率が低かったことも大きな要因だと考えられる。さらに組合自体も母数を増やすために呼び掛けを行い、多く新規を受け入れている時期であったため今に比べて保障も厚く、自営業を始めやすかったという。「声をかけてもらうタイミング、素麺と出会うタイミング、そして心に決めて始めたタイミング、今考えれば、たまたまみんな良いタイミングで、すべてが掛け算のように絡み合って今こうして何とかなっとるわ」と祖母は話す。
また祖母の母の存在が、自営業として素麺場を営む2人の生活を大きく支えた。2人は口をそろえて「ばあさんには苦労を掛けた」と話す。祖父は当時の状況を「ばあさんはこっぱやった(身を粉にして働いていた)と思うぞ。洗濯物からご飯から子育ては皆、ばあさんがしてくれた」と話す。また祖母も同じように「ばあちゃんがみなしてくれた。ばあちゃんは子ども好きいうこともあって全部面倒見てくれてな、だから私は一日中素麺を頑張れたんや」と語る。素麺を始めた当初、母はまだ1歳半で、叔父は生後5か月だった。そんな子育てもままならない大変な時期に、怒涛の戦いが始まり、素麺を手伝いながらも生活面の大半を一人で支えてくれていたという。また、祖母は「昔は、絹のおむつを使っていたから洗濯をするのも一苦労なんで。それでも自分は素麺に一生懸命でぜんぜん子育てなんてできんかった。子どもが熱を出した時は病院に連れて行ってもらうし、病院代や食事なども自分たちにお金がなかったから全部面倒を見てもらった」としみじみ話す。
50年を振り返って 今後の田中製麵所
こうした荒波を乗り越えてきた田中製麺所は、今日も「島の光」を製造し、2021年11月25日をもって創業50周年を迎えた。8年前の2013年からは、叔父が主導となって製造を行なっているが、今年で80歳になる祖父は現在もなお現役だ。祖母は、今年の7月8日、75歳の誕生日をもって引退した。
建て替え後の家の空中写真に指をさす祖母
祖父母に、50年間を振り返るとともに、これからの人生について伺った。祖母は、なぜ今年引退を決めたのか。「ずっと前から75歳で引退すると決めていた。年齢的にもそのくらいが一番いいと思っていたし、雅彦(叔父)も一人前に育っているから、いつまでも居座るのではなく、任せる方が良いと考えていた」と話した。またこれまでの素麺人生を振り返ってもらうと、「自分は、子どもを産むだけで子どもたちに何にもしてあげられんかった。みんなで出かける記憶いうたら、創業時から毎年、商売繁盛の祈願のために最上稲荷へ行っていたくらいかな。雅彦(叔父)は希望の進路に進ませてあげれんかったし、道恵(母)も部活で幽霊部員言われるほど素麺を手伝ってもらっとった。でも素麺をはじめた事は後悔してない。今こうしてみんなで集まって楽しくできてるからね」としんみり、そしてにこりと笑いかけてくれた。私は毎年年始の恒例行事として、参拝していた最上稲荷がこんなにも一家にとって思い出深い場所であることを知らなかった。素麺づくりを始めてもっとも苦労したことを尋ねると、「お金!」の一言だった。祖母はすべての会計を担当していた。「当時は借金地獄だった。新しい機械の買い替え、導入、家の建て直し、お金を借りては払う自転車操業で、いくつもダブって借金してた。『このまま病気になったらどうしようか』と不安やった」と語ってくれた。これからは、「のんびり過ごしたい。素麺してる時はずっと借金に追われて、返済しての繰り返しで大変やった。好きなことして自分の時間を過ごす。今はたくさんの孫に囲まれて、皆が大きなって成長する姿を見るんが幸せ。親戚みんなでも親子でも元気で動けるうちに色んなところへ一緒に旅行に行きたい」と祖母は話す。
一方祖父にも、今までの素麺人生について感想を聞いた。「ほんま大変やったけど、してよかったよ。あの時素麺すると決めずに今もサラリーマンのように働いてたら、家も建てれんかった。それに今もこんなに元気や。あんなに忙しくて大変やったのに不思議なくらい。こんなに元気で居られているのは、きっと長いこと元気にやってきたからや。同級生の中でも一番元気やぞ。引退したらゲートボールとかしてみたいな」と話してくれた。これからもずっと素麺を引き継いでいって欲しいかと尋ねると、「もう雅彦(叔父)で終わりや。素麺は(産業として)下がってきてるからな。それに今の子たちは大学行ってたくさん勉強してるのに素麺するのはもったいない」と話す。来年の引退を考えている祖父は「50年間素麺を作り続けてきて、自分から始まって大きな借金を覆って返済して、今もずっと田中製麺所がある。素麺を作らなくなっている自分の姿が全然想像つかん。何しようか。何してるだろう。ユキちゃん(筆者)はどんな大人になるんやろうね。みんな大きなって立派になってるの見るのが楽しみやわ」と話してくれた。
乾燥中の素麺の前でピースする祖父
田中製麺場を引き継いだ叔父にも話を伺った。「これからは細々、のんびりしていこうと思う。暇つぶし程度よ。なんせ島から若者は出ていくし、じいちゃんばあちゃんばっかりで暇になるんよ」と、にやりと笑いながら話す。普段から冗談を交えて場を和ましては、どこかいたずらっぽい姿がどうも叔父らしい。そんな叔父は昔は内申点満点の優等生だった。高校は高専への進学を希望したが、当時家には島を出て下宿させるお金はなく諦めて島の高校に通った。卒業後は板前になる夢を持ち、10年を約束に京都へ見習いに出たが、わずか3年で素麺を引き継ぐために島に帰ってきた。現在は祖父母も認める立派な素麺職人になっている。素麺を継いでほしい思いはあるか伺ったところ「ない」と即答だった。「素麺って朝は早いし、一日仕事でめちゃくちゃ大変なんよ。子どもたちには、やりたいことをやってほしい。夢があれば追えばいいし、好きなことに向かって進んでほしい。それにもう素麺は市場として長くないからな、おっちゃんで終わりや」と胸の内を話してくれた。
起業家としての二人を見て
初めて聞く、私が生まれる前の話。そこには私が知る優しく穏やかな祖父母の姿はなく、必死に苦難を乗り越えた2人の若者と一家の物語が広がっていた。今まで何も知らずに、伸び伸び自由に生きてきた自分が恥ずかしく思えるほど、何もかもが驚きの連続だった。また取材を通して田中製麺所の創業日と私の誕生日が偶然にも同じであると気がついた時には、こうして私が取材していることは必然であったのだろうと強い縁を感じた。
そして実を言うと、私は今まで祖父とは面と向かって話したことがなかった。少し怖い印象すら持っていた。皆で出かける際も祖父は一人お留守番をすることが多かった。親戚で食事した時も祖父は大人たちの中心にいて、私からは離れていた。しかし、今回の取材をきっかけに、一気に20年を取り戻せた気がする。素麺の話をしてくれている時は、見たことがないほどの笑みを何度も浮かべながら、親身にそして丁寧に私の取材に付き合ってくれた。素麺製造の1日に密着取材を行うことで、一つ一つの作業や手つき、感覚から長年の経験や苦労が何度も垣間見えた。ありきたりな表現だが、素麺を作ることの大変さが本当によく伝わってきた。普段見慣れた祖父や叔父の表情とは打って変わって、初めて見る職人の技や顔つきに大きなギャップを感じ、引き込まれた。また幾度も取材を重ねるうちに、祖父母に関わらず、それぞれの胸に秘める思いや歴史など、さまざまな一面を知ることができてとても嬉しく思う。
祖父の喜寿祝時に撮影された2人
8人の孫を抱える祖父母でありながら、起業家として大成功を収めた社会人の大先輩。これから本格的な就職活動に入る大学3年生の私にとって見習うべき点はたくさんある。自分が決めたことには自信を持って、恐れず真っすぐ突き進む芯を持った祖父と、強い忍耐力と人に大きな安心感を与えられる包容力を持った祖母。そんな祖父母の孫に生まれた私はきっとこれからどんな困難にも負けないだろう。前途多難な人生も悪くない。苦労するほど多くの得難い経験をして、自分のためになるだろう。そしてそんな経験が刺激となって人生に彩りを与えてくれるだろう。この先苦労した時にはじいちゃんとばあちゃんの若いころを思い出し、ほんの小さな出会いやチャンスは余すことなく全部掴んで、今を必死に生きて行こうと思った。(秦優稀乃)