変わりゆく速記文化
4月の入学式の時期になると、関西大学千里山キャンパスには、部員の募集を呼びかける立て看板がずらりと並ぶ。その中で、「関西大学 文化会 速記部」の文字が目に留まった。色遣いがシンプルな看板で、「10人程度の少人数で、とても平和な部活です。速記部のある大学は4校だけ!珍しいことを始めませんか?最初は皆、未経験者です。先輩が優しく指導します。」と細い文字で書かれていた。周りに比べると目立たない看板に心を奪われた。
速記とはなにか
「速記」とは一体何なのか。日本速記協会によると、速記とは、簡単な線や点でできた特殊な符号などを使って、人が話す言葉をすぐさま書き取る技術である。速記符号は、50音順に準拠して考案されているが、かなり簡略化されている。そのため、ひらがなや漢字を書くよりも素早く、しゃべるスピードと遜色ない速さで書くことができる。ただ、書きとったままでは暗号のようになっているため、それを解読し、きちんと整った文章に書きなおさなければならない。この復元作業までが「速記」である。速記は速記符号を使う手書き速記だけではなく、パソコンや速記専用タイプライターなどの機械を使った機械速記もある。
速記なんて学んだことはないし、使ったことがないと思う人も多いだろう。しかし、実は私たちは普段から速記を使っている。「仮名」は、画数が多い「漢字」を簡略化するために変化したものであるからだ。仮名は今から1000年以上前の平安時代に出てきたが、それまでは日本語を書き表すために、中国から伝わった漢字をそのまま利用していた。しかし、中国の漢字は複雑で難しかったため、それを簡単に崩して「平仮名」にしたり、一部を抜き出して「片仮名」にしたりして簡略化するようになった。その平仮名や片仮名をさらに単純にしたものが、「速記文字」なのだ。
現在、日本速記協会が実施する速記技能検定は、1級から6級の6段階に区分されている。その程度を推し量るため、私たち4人も普段通りの書き方で、速記問題に挑戦してみた。まず一番下の階級である6級に挑戦した。日本速記協会によると、6級の基準は、普段通りの書き方より速く書くことができることだ。大体1分間に80文字程度で、人が話すよりゆっくりとしたスピードである。これは、全員書き取り、正解することができた。続いて挑戦した5級は1分間に120文字程度で、これは、4人中1人だけ書き取ることができた。だが1分間で180文字程度の4級はまったく追いつくことができなかった。5級以上は速記符号を使用しないとなかなか書き取ることができないようだ。最上級である1級は1分間に320文字程度とされ、NHKアナウンサーがニュースを読む速さよりもさらに速い。普段通りの書き方で追いつくことは困難だ。
だが、ここで役立つのが速記である。画数の多い漢字でも速記文字によって一瞬で書けてしまう。また、素早く書くことができるだけでなく、漢字や語彙の知識が増え、集中力と注意力が高まるといった利点もある。実際、私たちも速記問題に挑戦しているとき、一文字一文字に対する注意力が高まっていることを実感した。
なお、一言に速記符号と言っても、方式によって形はさまざまである。日本速記百年記念会発行の『日本速記者名鑑』には61もの速記方式が掲載され、代表的なものとして、早稲田式、中根式、参議院式、衆議院式、日速研式、石村式、V式などがある。
関大速記部
関西大学の速記部が採用しているのは山根式である。大阪山根速記学校で使用されていたもので、同校が廃校されてからは、関大の速記部でしか使用されていない。その担い手である現在の部員数は、3回生2人、2回生3人、1回生3人の計8人。毎週2コマ、大会に向けて練習している。1回生のうちは速記文字の暗記を中心に行い、速記文字を覚えると実践的な練習に移行する。読み役が読んだ文章を速記文字に起こし、それを反訳することで技術を高めていく。指導役も含めすべて学生のみで活動している。
2020年度は、新型コロナウイルスの影響で関大速記部もオンラインでの活動を余儀なくされた。2021年度も新入生の入部直後に緊急事態宣言によって課外活動が停止となり、満足な活動ができていない。練習量は半分以下となり、1回生のうちに覚えるべき速記の基本文字や法則を現2回生はまだ覚えきれていないという。こうした状況下でも、読み役側と反訳側に分かれLINE通話を使って1対1の練習を続けている。全日本学生速記連盟による全日本大学速記競技大会も2020年はオンライン形式で行われた。
大学生が参加する全日本大学速記競技大会は、すべて学生のみで運営されている。この大会は歴史が深く延べ100回以上行われており、関大速記部はかつて52連覇を成し遂げたことのある強豪校であった。
2020年、全国大会に参加している大学は、関西大学、関西学院大学、早稲田大学、福岡大学の4校。読まれた問題文を速記符号に起こし、その後普通文字に反訳してその正確さを競い合う。大会はA級からJ級に階級分けされた個人戦と団体戦で行われる。個人戦の合計点が団体戦の得点となるため、個人戦に参加する人数が多い大学ほど有利になる。団体戦にカウントされる人数の制限はないため、部員の数が減少している関大速記部は勝つ見込みがなかった。そのため、2020年は団体戦のエントリーを断念したそうだ。
2019年まで大会に参加していた関西大学4回生の古川かあまさんは、全日本大学速記競技大会の個人戦において最高階級であるA級で全国3位に輝いた実績を持つ。A級では320文字×3分の文章を反訳する必要があり、古川さんは最高で1分間に340字の文章を速記符号に起こすことができたという。一般的にNHKアナウンサーが1分間に読む文字数は300字と言われているため、それとほぼ同じ速さで書いていたことになる。古川さんは家での自主練習のみならず、駅のホームや看板等外で目に入った文字を速記符号に変換する練習を日常的に行い、技術を体得していった。その結果、2回生の後半から上達スピードが上がり、A級に出場するようになったという。速記符号に起こしているときの頭の中は、「聞いた文字がそのまま速記符号に変換されている感覚」と話す。
しかし、当時関大からA級に出場していたのは古川さんただ一人であった。かつては52連覇を果たし、大学速記界では右に出るものはいないほどの強豪校だった関大速記部。だが、古川さんが1回生だった2016年に連覇が途切れてしまう。それからは、部員の数が減少していることもあり、再び強豪校へと盛り返すことが難しいと判断した当時の部員たちによって個人で速記を楽しむ活動へと変わっていった。現在の部長である上平祐輝さんが入部した時にはすでにかつての厳しさはなくなり、和気あいあいとした雰囲気になっていたという。上平さんが入部を決めたのも部の雰囲気の良さに惹かれたからだった。伸び伸びと速記に打ち込むことができる環境で、現在の部員は活動に取り組んでいる。そんな速記部員たちは速記の何に魅力を感じているのだろうか。
「速記の面白さは自分の成長が目に見えて実感できるところにある」。上平さんと古川さんは口を揃えて言う。速記符号には細かな違いがあり覚えるのに時間がかかる。例えば、関大速記部が採用している山根式では「あ」と「え」は同じ字形だが微妙な長さの違いで判別しなければならない。さらに、略字や略語の活用形など表現は多岐にわたる。古川さんも、略語の暗記で挫折した経験があるという。しかし、苦労しながらも練習を積み重ねていくと、最初は30字ほどしか反訳できなかったところから、アナウンサーの読みと同じ速度で速記できるまでに成長した。文字数という形で自身の成長を実感することができる。一見字を書いているだけに見えるかもしれないが、やり続けていると速記符号で書くことが楽しくなっていく。そこに速記部員たちは惹かれ、日々練習に励んでいる。
速記文化の歴史と現状
関大速記部は強豪校からのびのびした部活へと変化していたが、速記文化そのものはどうなっているのだろうか。また現在速記の技術や文化は実際に社会のどのような場面で生かされているのだろうか。日本速記協会の兼子次生さんに話を伺った。兼子さんは高校の部活動がきっかけで速記を始め、大学卒業後はライフワークとして速記にかかわってきた。日本速記協会の会員として日本の速記の歴史を伝える活動を40年ほど続けている。
兼子さんによると、「かつて、速記が非常に権威を持ち社会で重用された時代があった」という。速記検定1級を持っていると公務員試験の過程で地方議会から誘いが来るなど、就職に有利な資格で待遇も良く、その価値は大きかった。速記の全盛期である 1975(昭和 50)年頃には全国約 20の大学に速記部が存在したという。しかし、時代の変化や技術の進化によって昭和の末期にはそうした価値は縮小してしまった。
現在の手書き速記の人気は全盛期と比べると下火になっている。しかし、速記に魅了された人たちはそれぞれの興味や楽しさを持って速記と関わっている。兼子さんは現在、速記の新しい技術やこれまでの歴史についての研究を続けている。若い世代でも速記の面白さに惹かれ、速記についての情報や知識をブログやYouTubeで発信する人もいる。また、大学速記部の活動以外にもさまざまな取り組みが全国にある。日本速記協会では「みんなの速記」という事業を推進し、興味を持った人が手軽に「速記」を学べるように全国各地で速記教室や共練会の活動を行っている。速記文化に触れる機会はさまざまな場所に用意されている。
速記文化のデジタル化
こうした速記文化は現代社会の中でどのような位置にあるのか。兼子さんは「前提として、昔と現在で『速記』の意味合いが大きく変化した」と語る。戦前は手書きが速記の代表的な技術であり文化であった。しかし、戦後の技術革新によってテープレコーダーなど記録メディアのハイテク化が実現してからは、話されていることをリアルタイムで文字に変換する知的な活動全体が「速記」であるという概念に変化した。
手書き速記のほかに実際に社会で実用化されている例として、オリンピックのテレビ字幕や聴覚障害者のための落語の字幕寄席といったものがある。オリンピックでは生放送される音声を即時に字幕に変換する。寄席では聴覚障害者も楽しめるように字幕を加えて放送される。テクノロジーの発展により、速記は社会で広く活用されている。
しかし、デジタル化が進む中で、手書きの速記文化をどのように残していけば良いのだろうか。2013年と少し古いデータではあるが、日本速記協会が実施した調査によると、本会議で速記による記録を採用している都道府県議会の割合は、2000年頃から半減している。一方、録音をもとにテープ起こしする方式の議会は3倍以上に増加した。さらに、同協会が開催する速記技能検定で、合格するとプロの速記士に認定される1級と2級の受験者数はピークだった1970年度の9320人に対し、2015年は369人にまで減少している。このように次世代の速記文化の担い手が手薄になっていることは、時代や社会の変化の流れを正面から受けているために他ならない。しかし、国際的には、法廷での内容を記録する方法としてリアルタイムでの速記が主流になっており、アメリカにおいても、速記者が大幅に増員されている。実際のところ、日本でも速記者の養成再開と増員を求める声もあるそうだ。
かつて国会では、両院規則で「議事は速記法により記録する」と定められており、最近まで国会議事録の作成はすべて手書きの速記で作成されてきた。両院に速記者養成所が設けられ、優秀な成績を収めた者が速記者として活躍している。しかし、その養成所は2006年末廃止された。今では、本会議や予算委員会など重要度の高いものに手書きの速記が使用されているだけで、その他の委員会では新システムが用いられるなどIT化が進んでいる。
テクノロジーに問題がないわけではない。機械は人間のように柔軟な頭脳を持っておらず、例えば同音異義語の正確な判断ができない。また、方言が理解できず、滑舌が悪い場合にもミスが生じる恐れがある。実際に、最高裁判所では速記人事異動の変更策として、録音反訳方式を実施しているが、この改革では誤字脱字が目立つ事例が報告されている。
速記文化のこれから
今日において速記文化が生き残ることにはどのような意義があるのだろうか。その一つが歴史的な意義であると兼子さんは言う。国内では、速記符号のままで記録が残されている戦前の発言資料や学術資料などが近年、発見されている。速記方式理論を解明して体系化づけておけば、それらの資料を現在の現在の文章に書き戻して解読する可能性がある。また、現在は使われていない過去の速記理論を発掘し、研究していくことで資料の分析も詳細にできるようになる。過去に速記された文章を解読することは、古代の文字遺物を解読するのと同じように現在でも需要があるのだ。「速記の技術や文化は新しい社会的な要求に常に応えていくことが重要であり、その要求に応えられるか応えられないかが速記文化が未来へ残っていくかどうかの分かれ目になるのではないか」。兼子さんが言うように、これから先速記文化が残っていくためには、速記の技術や文化が社会にどのように貢献できるのかを検討しながら、活用していくことが必要である。
現在、関西大学速記部に52連覇を成し遂げた雰囲気はない。しかしながら、個人の目標・目的は違うものの、速記に励む姿は共通している。兼子さんは速記文化の継承問題についてこのようにも述べている。「現在速記は、紙に記す手書き速記に留まらず大きく変化している」。その言葉の真意は、速記は社会の変化に適応してデジタル化を受け入れ、現在の形を変えながら速記の本質に変わりないということだ。つまり、危惧していた速記文化の継承問題は新たな展開を迎え、解決に向かっている。現在、世界的に速記の在り方は多様化し、先進国ではリアルタイム反訳に加えて、その結果の同時翻訳というグローバル化の新しい要請にこたえつつあり、長い歴史の中で大きな転換点にある。その中で、伝統的な手書き速記文化を継承している大学の速記部は、古代ギリシャ時代以来伝わる手書きの速記文化の未来を担っているといえるだろう。従来の速記を守る貴重な切り札の位置づけに大学速記部はあるのかもしれない。
(野中彩未、細田菜月、村上菜月、山本凌也)