なぜ「鼠の小説は優れている」と言ったのか|思い出図書 vol.07
わたしは拗らせたところがあり、高校生くらいまで「ベストセラー作家というだけで読んでたまるか」みたいなことを割と本気で思っていた。
高3の夏に村上 春樹さんの「スプートニクの恋人」の書き出しを読んでからその考えは多少改まったのだが、それでも少ないバイト代から書籍代を捻出するとなると優先順位は「いま一番読みたいもの」になり、必然的に「読んでおいた方が良いもの」は後回しになる。
結局、わたしが村上 春樹さんの作品を読み始めたのは大学に入ってからだった。
デビュー作から順に読んでいこうと思って、まずは「風の歌を聴け」を読んだ。
物語の核心かどうかは別として、小説家になりたいと思っていた当時のわたしには決して見逃せない一文があった。
鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。
なお、現実の村上作品ではどちらもある。
放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
と続くのだが、そういうものだと言われても全然わからない。当時も今もだ。だから、わたしはなぜセックス・シーンが無いことと人が死なないことを指して「優れている」と評したのか、考えた。
まずは昔読んだ作品の中から、登場人物が死んでしまった時のことを思い出してみる。
その人物に対して思い入れがあればあるほど、当然悲しい。さほどなんとも思ってなかった人物であっても、後から何か発覚して切なくなるというパターンもある。
人の生き死には、取り入れるだけでドラマを生むことができるのだ。
性的な描写に関しても似たようなことが言えるのではないか。それがあるだけで、いったんはドキッとするだろう。
ドキドキが継続するかは描写の巧拙やそのシーンの分量などにもよるだろうが、読み手の感情を動かすという点において一定程度の効果が見込めるはずだ。
人の生き死ににしろ、性的な描写にしろ、取り入れるのは作品世界の「神」である書き手の匙加減だ。
もちろん、書きたいテーマ/モチーフの都合上必要であるとか、登場人物たちに展開を任せていった結果行き着くとか、ということもある。それは仕方ないと思う。
でもきっと、この二つを封じても「読ませる」作品は、優れているのではないか。
わたしは大学在学中、文芸創作のゼミに所属していた。ゼミ以外にも掌編を書くような講義もあった。
そういう環境下で何作か書いたのだが、わたしは例の一文をもろに引きずり、自分の作品では人を死なせることも性的な描写もしなかった。
その二つを封じても「読ませる」作品にチャレンジした、と言えば相当ポジティブだが、単に「優れた小説」の枠組みに囚われていたし、登場人物を死なせる覚悟も、顔が割れている状態で性的な描写を取り入れる勇気も持てなかった、というのが実情だった。
おかげで、わたしの作品はゼミでの講評で「平和だね」という評を得た。
「退屈」とは言わなかった彼らの品性がありがたくも、妙に心に残っている一言である。
風の歌を聴け(村上 春樹)
講談社