見出し画像

やりたいことが思いつかないし、思いついても実行できないという「病」―—『普通という異常 健常発達という病』兼本浩祐(講談社現代新書)を読んで

ライター仲間の江角さんが、今年やりたい10のことリストを作っていて、さっそくわたしもやりたくなった。100とかじゃなくて、10なのがよい。1年あれば10個なんて叶えられそうな気がする。

1つめはすぐに出てきた。原稿用紙300枚越え(約12万字)の長編を書いて、文学賞に応募すること。去年やろうとして挫折したので、今年こそやりたい。やり遂げたい。

2つめは…と考えかけて、去年の失敗が頭をよぎる。去年、ベトナム旅行に行ったり、西表島にサバイバルキャンプに行ったり、着物三昧の日々を送ったりできたのは、たぶん、この賞に応募するために確保していた時間をあきらめたおかげだった。裏を返せば、12万字の小説を書くためには、ほかに9つもやりたいことをやっている場合ではない。少なくとも締切の10/31までは。

自分で応募すると決めた賞の締切は、誰にも迷惑をかけずに破ることができるから、どうしても仕事の締切が優先になってしまい、ここまでずるずる何も応募できずにきてしまった。なので、まずは書き上げて出すということを成功させるために、今は創元社SF短編賞に向けてSFの短編を書いている。応募要項で規定された枚数は原稿用紙40~100枚相当。幅があるが、同じ面白さで書けるなら長い方が受賞に有利だと(わたしが勝手に)考えて、上限の100枚(4万字)を目指していたんだけど、どうにもこうにも執筆時間が取れずに間に合わないので、下限の40枚(1.6万字)でがんばることにした。

締切まであと5日。取材や遊びの約束があって、取れる時間は半日×2+1日×2。今4000字。まあ無理ではないラインだと思う。何とかなりそう。

しかし12万字となるとそうもいかない。丸一日全部使って最大4000字書けるとして(執筆時間は4時間くらいだとしても、4000字書ける状態にアイデアや精神をもっていくために1日使う。他のことをしていると4000字書けない)、30日必要。まとめて30日確保したとしても「さあ、アイデアはすべてそろった。あとは書き続けるだけだ」みたいな状態にはなれないことは去年わかった。少し書いたら迷いが出てくるし、書きながら固まってくることもあるし、そもそも、日頃から走り続けていないと、本番のレースで走れない。走ったことのない長距離なのだから、毎日ジョギングをしてコンディションを整えて、マラソン大会に出なくちゃいけない。

1か月1章(1.2万字)書くとして、月に3日は小説を書くだけの日を確保したい。そんなふうに計算したら、急に弱気になってきた。たった3日なのに、できる気がしない。3日って、新しい仕事を引き受けたらすぐに消えてしまうような期間だ。新しい仕事を1つ引き受けなければ確保できるし、小説を書くということを新しい仕事として自分に依頼すれば確保できるはずだ。

小説を書くことを、依頼されてお金がもらえる仕事と同じくらい大切にできていない。自分の「やりたい」という想いを信じられていない。依頼された仕事は、誰かのやりたいをかなえる行為だから、自分を信じる必要がなくて、ある意味ラクだ。その、誰かのやりたいを押しのけてでも、自分のやりたいをやりたいのか。ここで「やりたい」と言えなければ、忙しい日々の中で自分のやりたいを優先させることは、たぶん、一生できないのだと思う。

昔からあまり物欲はなかった。自分の欲しいことやしたいことが特にない。サンタさんにお願いすることも特にない。大人になってからも、誕生日プレゼントのリクエストを聞かれたら困ってしまうし、いろんなことをしているけど、たいてい誰かの誘いに乗っているだけだ。

中心になって仕切るのは嫌いで、おままごとでみんながお母さん役をしたがっても、妹とか犬とか、そういう役がしたかった。リーダーになるのも嫌。起業しないの?ってよく聞かれるけど、代表とか社長になるのも嫌。

それなのに、自分の書いた小説をいろんな人に読んでもらいたいと思っているのは、謎。小説をいろんな人に読んでもらいたいという「やりたいこと」があるから、ほかのことに興味がないのだろうか。実際、今、今年やりたいことを10個考えようとして、1つ目で止まってしまったし。

そういえば、仕事も誘いも多すぎて、断れなくて自分の時間が取れないことに悩んでいたことがあったなあ、と思い出した。今はだいぶ誘いも断って厳選するようになった。仕事も厳選しているが、まだまだ、小説を書く時間はとれない。

…なんてうだうだ考えているうちに、ふとこんなイメージが頭に浮かんだ。学校の教室の学級会で、議題は「寒竹泉美の時間を何に使うか」。わたしは前に立って司会をしている。いろんな人たちが、わたしの時間を使って、「こんなことやりたい」と手を挙げて口々に発表している。どの提案も魅力的で、どの人たちのこともわたしは好きで、応援したい。発表してくれている人たちもわたしのことが好きで、わたしに良かれと思って提案をしてくれている。

だけど、自分がやりたいことをやるためには、わたしはその提案を全て押しのけて、却下して、「わたしは小説が書きたい」と言わなくてはならない。

別にわがままを言っているわけではない。間違ってもない。わたしの時間の使い道なのだから、誰も反対はできない。

だけど、自分のやりたいことが通らなかったみんなは、がっかりする。困る人もいるかもしれない。わたしが断ったせいで大変な思いをする人もいるだろう。大して気にしにせず、別の人のところへ行く人もいるだろう。教室からばらばらとみんな出て行って、ついには誰もいなくなる。わたしはひとり取り残される。

わたしはたまらなく不安になる。悲しくもなる。怖くもなる。わたしの「やりたい」は、彼らの「やりたい」より正しかったのかと自問する。

ここまでイメージして、今読んでいるこの本とつながった。

ADHDやASDの発達障害と呼ばれている人たちの脳の働き方は少数派で、それゆえに多数派の人たちと合わなくて社会の中で困ることがあって「障害」となっているけれど、多数派の定常発達者たちにも変なところがあり、それを病とみなしてみるとどう見えるかという本(この本では敢えて定常を健常と書いています)。

定常発達者の病とは何か。

「普通の」人たちというのは、「相手が自分のことをどう考えているか」が、「自分がどうしたいか」よりも優先される人だと、とりあえずはここでは言っておきたいと思います。

『普通という異常 健常発達という病』兼本浩祐(講談社現代新書)

確かにそのとおりだと思った。さらにさらに、しつけやすい定常発達の子について、

社会制度的な正しさが自分の実感に置き換えられ、自分が本来は何を求めていたのかが容易に曖昧になってしまうというリスクと表裏一体だともいえます。

『普通という異常 健常発達という病』兼本浩祐(講談社現代新書)

と書いてあって、はっとした。自分のやりたいことが見えなかったり、思いつかなかったり、優先できなかったりするのは、わたしは「健常発達という病」にしっかり侵されているからなのだなと思った。

誰もいなくなり一人取り残された教室で、罪悪感や不安を抱くこともなく、「さあ、これで自分のやりたいことができるぞー!」と心からワクワクできるような人になりたい。

自分のやりたいことが見えずに、一生、人や社会のやりたいことをやり続ける人生は嫌だな。嫌だから、この「病」を治したいと思った。それが2025年にやりたいことかも。別に他人に迷惑をかけるわけじゃない。自分の時間の使い方くらい、自分で決められるようになりたい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集