きっかけとなる
こんばんは、kanbinayohbiです。
初めて夜に書いてみています。
今日もちょっと、ほとんど、日記です。
今日は、小学3年生からの幼馴染に会ってきました。
私の人生の全てを知っていて、見守ってきてくれた人物です。
小学校6年間 同じクラスで、中高では離れていましたが、
家が走って30秒のところだったので、よく夕ご飯をご馳走になっていました。
今思えば、なんたる迷惑….
当時は、幼馴染とそのお母さんと3人でお喋りしながら食べていました。
私が育った家庭にはあまりなかった食事という時間での雑談
私にとって、彼女たちとの食事がすごく楽しい時間でした。
なので、結構な頻度でお邪魔していましたが、
嫌な顔ひとつ、されたことがありませんでした。
それは、誰かとの食事が楽しいという感覚が芽生えたきっかけだと思います。
たくさん思い出話も、これからやりたいと思っていることも、
色んなことを5時間くらいぶっ通しで喋り尽くした帰り道。
ふと、幼馴染から
「お母さんとよく話すんだけど、
(私)って、私たち親子にとってカルチャーショックだったんだよね。」
と言われて「どういう意味?」と聞き返すと、
「お母さんも私も田舎っぺで、外の世界のこと何も知らなかった。
でも、色んなバッググラウンドを持ってる(私)がウチに来て、
色んな話をしてくれることで、私たちが外の世界に興味を持つきっかけをくれて
視野を広げてくれたよねってよく話すの」と。
私は、ただ自分が見たことや感じたことを話していただけだったけど、
小さな町の親子の視野を広げていたなんて、思ってもいなくて。
そういえば、先日も別の友人にも
「私が社会問題について興味を持ったきっかけは、
(私)が私にそれについて話してくれたから」とも言われたことがありました。
その時も、自分が話したいことを話しただけのつもりだったと思います。
何気ないそんなようなことが、誰かの”きっかけ”になる。
これらの出来事は、とっても嬉しくて、少しだけ自分を誇らしく思いました。
こんな私も誰かの”きっかけ”になることがあるんだと。
もちろん、それって私の力だけではなくて、友人たちの
純粋さや知的好奇心のような力も大きく役立っていると思います。
それでも、私を”きっかけ”と言ってもらえることは、
これ以上にない喜びだと思いました。
今の私が友人たちに救われて生きているように、
過去の私が今の友人たちを手伝っていたのかな。
そして、そのように作られた私たちの関係性が
私の生きたいという気持ちの”きっかけ”となっています。