075 社会の鏡
山村に土着し、自力を主体とした自給生活をベースに暮らしている。
結果として古い生活をしているように映る。
また、少し違うが田舎暮らしとか、自給自足とかとも形容される。
これらのことばに色々な印象が社会にある。
そのままにしておくには非常に惜しい見立てなのである。
この際、社会に習って、社会の鏡になってみる。
「夢の実現、うらやましい」
私は夢を描けないタイプの人間である。
だからそのように映るのであれば、勝手な想像である。
確実に言えるのは、このような暮らしを夢と見ているは私ではなくご自身である。
夢は幻であり、人の夢は儚くていい。
世知辛い世の中、夢が見られるのはうらやましい。
「のんびり自給生活」
自給生活は、季節に追われ、到底ゆっくりすることできない。
それに、のんびり生きたいなどと今まで夢にも考えたことがない。
だから、のんびりという見立ては見立てる側の勝手な推測なのである。
忙しい生活に追われ、のんびりしたいと思っているのは、ご自身である。
「都会からの逃げ」
都会は人が集い、色々な刺激があり、どうころんでも楽しいところである。
楽しめば分かるのは、到底、容易に抜け出られるところではないという実感である。
今まで都会から逃げ出したいと思ったことはないのである。
これは都会から逃げたいと思っている人にしかできない発想なのである。
都会から逃げたいのは、私ではなく、ご自身である。
「現実逃避」
退屈な人生で、唯一の救いが刺激のある現実である。
すこし時間を掛け長い目でみれば逃避したい現実など、どこにでもない。
現実逃避という印象は現実逃避したいと思っている人でしか発想できない。
現実逃避したいのは、その見立て者、ご自身である。
「会社を途中でやめるのは、お世話になった会社に対して失礼である」
このことばの前には、「やりたくなくても」の意がある。
やりたいのであれば、途中でやめる理由がないからである。
その、やりたくもなくても会社に勤めることは、失礼を超えた無礼である。
それでは、到底納得する成果を上げられないし、やる気のなさが職場に伝染してしまう。
管理する側に立ち、ちゃんとした成果を上げれば、実感としてわかる。
会社とは、同じ志を抱く者の一時的は人間の集まりなのである。
定年前であっても、やりたいことがなくなれば、始末よく退場するのが礼儀である。
仮に、どんな有能な人であっても変わりの人が、すぐ育つような仕組みなのである。
有能な人間がいなくなれば、その次に有能な人間が浮かばれ、育つのである。
それに後を濁さない退社は、スムーズな入社の三倍気を使うのである。
それなのに自分勝手な解釈の恩義を、ただ生活を持続する言い訳に使う。
それこそが、お世話になっている会社に失礼なことである。
同時に潜在的な自身に対しても無礼なのである。
「自分勝手である」
自力自給の生活の主たる目的は、社会と個人の程よい関係性の構築である。
個人の完全社会依存の状態から抜け出るための、唯一の手段である。
日本では少し前の主流な暮しであり、世界ではまだ多くの人が主流としている暮しである。
換言すれば、よい社会(夫婦から世界まで)なるためへの実践である。
決して自分本位に考えて決めたことではない。
残念ながら自分が弱いので到底、好き嫌いで生き方を決められないのである。
それが自分勝手に映るのなら、それこそが見立てる側の自分勝手な思い込みである。
私を自分勝手に自分勝手と評価している自分勝手な人なのである。
その評価の元には、自分勝手に生きたいという自身の願望がある。
自分勝手にならぬようにと抑えて生きているのである。
押さえ込まなくてはならぬほど、自分は勝手なものなのか。
そんなに大それた悪にもなれない。
私を含め、小心者が集まり社会を作るからである。
「田舎は教育が遅い」
一体なにを教育できるのだろうか。
人間が人間に教育するのはほとんど不可能である。
当人が受け入れる気がなければ、何度言われても記憶できない。
仮に覚えてもすぐ忘れる経験はだれでもしているところだ。
親として唯一子供にできる教育は、自分がなりたい人間になることである。
自分で示す自力自給を教育の主と考えれば、山村は示しやすい環境にある。
それを、受け取るかどうかは、当人の自由である。
これが、もっとも古風でもっとも世界に通用するもっとも進んだ教育なのである。
教育が遅れているのは、田舎ではなく、自身への教育なのである。
「田舎は文化が低い」
人間の精神の所産である文化に高低はない。
なにをどうしても高低を計れるものさしはない。
ただ、どこかの文化を低いと見なす文化の持ち主は低いといえてしまう。
「田舎は活気がなさそう」
普通に暮らすのであれば少々の活気があればいい。
大きな活気は時々あればいいのである。
大きな活気を求め、今ある活気を見ないのは、自身に繊細で静かな活気がないからである。
「田舎は仕事がなさそう」
社会の役割分担である職業は、古今東西、人間が集えば必ず発生する。
田舎でなんらかの仕事をして暮らしている人がいくらでもいる。
田舎にないのは、割りのいい仕事である。
割のいい仕事など一時的なものであり、本質的にはありえない。
選択肢を勝手に狭め、自分に合う仕事はなさそうとしているのは自身である。
「田舎は時流から外れている」
時流とは、時代を通してみた社会常識の流れである。
時流は時事刻々として変化しているので時流として存在している。
しかし、時々刻々変化する人間はいない。
厳密に言えば、だれも時流には乗れない、ただの概念であり、時流は小事である。
しかし、どんな人間も完全に時流から外れて生きることは不可能である。
必要最低限ではあるが時流と関わって生きているし生きたいと考えている。
それなのに私が時流から外れて見えるのは、自身が時流から外れているからである。
時流という井のなかにどっぷり浸かっていれば、時流の中しか見えないはずである。
それなのに時流から外れた人が見える。
それができるのは、自身が時流から外れてしまっているからなのである。
「百姓はしんどそう」
頭を使い、体使うので一応、大変である。
しかし、一方的に大変ではなく、相応の充足感もあり、プラス・マイナスゼロである。
ただ、しんどいほうが多い生き方を選択しているのは、自身の方である。
自身では、自分の方が楽な生き方を選択しているように考えているかもしれない。
しかし、それは本心からではないのである。
真に楽をしている人間は、他人も楽をしているとしか見立てるものさししか持たない。
自分がしんどいから、他人をしんどいと見立てるのである。
「土着の付き合いは面倒くさい」
食べるのも寝るのもやるのも面倒であり、生きること自体が非常に面倒な事である。
それに比べれば、土着のつきあいの面倒など、ものの数ではない。
いや面倒な事もあるが、心をよく働かせれば、慣習のなかに美しい振る舞いが多くある。
そのなかで、同じように扱われ、始末をつけられることに決して悪い気はしない。
一方的に面倒な事なら、慣習として続いているはずはない。
土着を面倒とし、本心で浮世を浮遊して楽しんでいるのであればいい。
それに飽き足らなくなっているのである。
面倒の少ない浮遊生活に面倒を感じているので、面倒というものさしで見るのである。
「山村は寒そう」
確かに山村は寒い。
しかし、ただ寒いだけでなく、それ相応の利点もある。
それに寒いところが根源的に人間に合わないのではない。
人間が寒いところが苦手なら、いまでも人間はアフリカの東海岸にいるはずである。
ある程度の範囲なら体は勝手に気候に馴染むのである。
部屋は寒いが、ちゃんと着込み、こたつ入れば充分に暖かいのである。
暖かい部屋に住んでいるのに、寒さを感じているのは自身なのである。
「不便そう」
なにがどう不便なのか。
インターネットは万能ではないが、外国とも取引できるすぐれものである。
どこにいても、市販品でも中古品でもなら大体のものは手に入れられる。
大体、自給するなら、山村のほう便利である。
便利な都会で、小さな不便を大きく感じているのは自身である。
「スローライフ(ゆっくり生活)」
時間は万人に同じように流れている。
なのに他人の暮しをゆっくり見立てるのは、自分がビジネスライクに生きているからであるかのように考えているからである。
しかし有限の人生の唯一の目的とは、自己価値を頭と心と体で知るということにある。
それなのに必要以上に社会のなかで戯れているのは、短い人生をゆっくり生活しているようにしか見えない。
「お金が少なく(エコノミー)て暮らせそう」
自給は基本的にはプロが作るより高くつく。
自分で作ったり直せば、大量生産でなく、効率も悪いので、なにを作っても高くつく。
田舎では、ただ暮らすだけでも、付き合いも多く出費がある。
都会では不要な軽トラックや農器具がいるし、自宅修繕の道具などもいる。
お金が少なくて済む都会で、もっとお金が少なく済むことを望んでいるのは自身である。
私への評価を、もれなく、すべてありがたく頂戴したい。
その見立ては、ものを考えるのに非常に役立つからである。
また、自己を知るのに、これほど役立つものはないからである。
しかし、そのまま受け取っておくにはあまりにも、恩恵が大きすぎる言葉たちである。
私への評価は、私の常識(価値観)と自身の常識とを照らし合わせている結果である。
しかし自身を通して見える私は、本来の私ではないし、私の常識でもない。
私の常識は、説明しない限り不明なはずだからである。
私を通して見えるのは、ただ自身の常識としていることだけである。
私に対するイメージのようであっても自身に対するイメージなのである。
他人への評価は自身への評価そのものなのである。
社会への評価も自身への評価そのものなのである。
万物に対しての評価も同じなのである。
ものさしとは自分自身なのである。
他人のものさしでは自分自身を測ることはできないのである。
いかなるものさしを持つかで、測れる自身が決まるのである。
持っているものさしこそが、どういったものか知る必要があるのである。
私への評価とは私とあなたとを同じタイプの人間と同一視した上ですることである。
しかし現実は、私は私、あなたはあなたであり、決して同一にはならない。
それに知らない私への正確な評価など不可能なのである。
本来、勝手で面倒なだけの互いの評価は互いに不要なのである。
ここまでくると「ほっとけ」ということになる。
これでやっと私と自身と気持ちが同じになる。
この距離感がいいのである。
それが、互いの「ほとけ」であり、尊厳であるから。
蛇足をつければ鏡には、理想、目標なんて意もある。
何より鏡は自身を知るためにあるのである。