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091 未開発な私

「私」には、「密(ひそ)やか」の意がある。
秘密にしておきたいプライベートな領域があるということである。
公にさらすほどでもないということである。
本来さらしてはいけないものという感覚である。

秘密にしている私がいる。
秘密の私が確かにいる。
時々、感じるのである。
どうしても、私に対して秘密にしておきたいようである。

第一印象で何かを「いい」と感じる。
その何かは興味の対象であり、その何かを探っていく。
だんだんその訳がわかってくる。
直感は確信に変わっていく。

色々な新しい「いい」がわかってくる。
色々「いい」を獲得していく。
「いい」事柄が増え、囲まれていく。
ゆるぎない「いい」自分にかわっていく。

新しい「いい」事柄に触れる。
その新しい事柄に対する自分を感じる。
新しい自分を感じる。
私はどんどん開発されていく。

感性を頼りに思考して経験を積んでいく。
どんどん確信が増えてくる。
それと同時にどんどん私は固まっていく。
そして、そこにはどんどん密やかになっていく私がいる。

おかしいではないか。
「いい」に囲まれているのである。
「いい」が増えているのである。
どんどんよくなっていい「はず(筈)」である。

でもそうならないのである。
だからほかに仕様がないのである。
その「はず(筈)」を「はず(外)」すしかないのである。
いいとおもっている「筈」とは「枠」なのである。

「筈」を外すにはどうしたいいのだろうか。
生まれてから身に付けた価値観を外すことである。
それは生まれたときから、自然の中に育ったと想像してみることである。
換言すれば未開の地で育ったらと仮定してみることである。

人間の原型に近い未開の地で育った自分とはどういう自分なのであろうか。
幸福・愛・自然などの概念を持たない自分である。
所有権・人権・恥などの概念も持たない自分である。
野菜よりの野のもの、家畜より野獣をうまいと感じる感性を持つ自分である。

食欲・性欲・睡眠欲に「いい」とする対象がある。
しかしこの基本的な欲求ですら時代や地域や個人によって異にしている。
だから、これ以上の事柄で客観的に共通する「いい」はあろう「筈」がないのである。
ここに本来の「筈」があるのである。

今の志向のほとんどは時代や地域などの外的環境の影響によるものである。
だから、すべての価値観は時勢の名の下、植えつけられされたものに見える。
まあ、一種の洗脳と見立てられなくもない。
しかし洗脳といえば、あまりに簡単な洗脳である。

いくら指摘されても共感できないかもしれない。
それは洗脳(ブレインウォッシュ)の中にいるからである。
また今の自分の価値観が到底、洗脳されたものとも感じられない。
それはただ自らが率先して植えつけているからである。
これは洗脳ではなく、刷り込み(インプリント)なのである。

すこしだけ厳密に言えば洗脳されているのではない。
時勢であれ何であれ、人に価値観を植えつけることは不可能である。
そう見えるのは表層だけなのである。
深層をみれば、まったく違うのである。

人の深層には、教育すらできないのである。
ましてや洗脳など本質的に出来ないのである。
あるのは、洗脳によく似た洗脳もどきなのある。
これに似た話は多くある。

いかなる外のことばも深層には響かない。
逆を言えば、ことばの届かないところにあるのが深層である。
ことばにより変化してしまえば、深層ではない。
そこは深層にほど近いがまだ表層なのである。

表層においては、時勢の価値観の木は大きく育っているよう見える。
しかし、その木は深層には根が張れないのである。
だから大きくなるほどに倒れそうになるのである。
その木はそれで限界なのである。

そろそろお役御免の切り時である。
いまならなんにでも利用可能である。
せっかく大きく育てた木なのである。
ありがたく、無駄なく、利用したい。

未開の地に立つ自分を想像する。
すると、そこには未開の自分がいる。
ごくたまにだけ、そこにいくよう頭を開発している。
心や体も含め、未開発な私にはまだまだ開発の余地がある。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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