083 社会神の姿
そろそろ人間は、その半分を神にかえるときが来ているのではないか。人は神聖なことを感じることができる。厳かな儀式を大事にすることもできる。人間には神聖がある。しかし、不自然な神聖さは不要である。字面ほど大それたことではない。少し前の暮しを今の暮しにとり入れるだけである。
「神を見る人」は「神」である。神にならなければ神は見えない。尊厳がある人がものごとの尊厳を見ることができる。大工になれば大工の腕が見える。料理をすればほかの料理が見えるようになる。真摯に生きれば、真摯に生きている人が見える。神聖に思う人が神聖なのである。自分の中の神聖さを消せば、神聖さはどこにも見えなくなる。以前は人生の晩年になれば自然に感じたことである。以前は自然に生き、自然に死ねば、自然に仏という神になれたのだ。
「鏡を祀(まつ)る」神道で見る神とは、祭壇にある鏡でみる「自分自身の姿」である。鏡は小さいのでその中でも写るのは特に顔である。
「神」には「すぐれた人間」の意がある。打撃の神様、プロレスの神様、料理の神様など神に形容される人は多くいる。いろいろなところで神業をもった人がいるのである。また、英語の「ゴット」にもすぐれた人間の意がある。神には人間を全く超越した存在ではなく、もっと身近な存在としての意味もある。実際、古今東西多くのすぐれた人間が世界各地で神になって祭られている。各地で信仰している神は、すぐれた人である神のなかの神なのである。人が神にもどっても位置づけはなにも変わらない。ただ色々な神がいるのである。移り気な人間の中で、長く信仰されているものに、進歩を是認する教えはない。今までも戻ろうとしているのである。
「かみ」は「頭」とも書く。その頭のいい人はいない。人間は自分しか賢いと思えない。自分が賢くなるしかないのである。面倒だが、自身で自分の「まこと」を探すしかない。まこととは、頭の尊厳である。まことがあれば、勇気こそは不要となる。ただ、やるだけになる。そうなるまで、時間を充分かけて考えるのが、頭の役目である。それが心には苦痛でもあり楽しくもある。
「かみ」には「物事の最初」の意がある。初心忘れべからず、初心を持っている意である。最初の疑問に常に返ることで、自分の神性を取り戻すのである。
最も大きな疑問は「自分ってなにか?」である。なんの価値があるか、なんの意味があるか、これが最も真摯な最初の疑問である。これには、人生のすべてをかけて回答する使命がある。方向さえ間違わなければ、自分で回答できるのである。
ついでに、最初の疑問は「なんでこんなところにいるのか。いかなくてはならないの。」である。はじめに幼稚園や保育園といったとき、こんな風にことばにはうまくならなくても、泣いて思っているはずである。そこから自然に無理な社会性を身につけたのである。必要な社会性を身につければ、それ以上は不要である。回りの人に対しての必要以上の配慮は、回りの人が気づくかどうかは別にして、慇懃無礼なのである。
「神」の字は、「申す」と「示す」でできている。申すことを示すのだから言行一致である。魂をはなさない生き方である。自分自身率が100%である。自己同一化している状態である。自身以外に責任を転嫁しない状態である。尊厳な状態である。また、言を成すと書いて「誠」となる。まことは、頭の尊厳である。
「申」はさる(猿)の意味がある。神とは「猿であることを示す」ことである。動物も植物もすこし前まで神であった。猿も神であった。山や川や海も星も神であった。猿であった人間も元々も神であったはずである。少し前の暮らし方をすれば、なんとなくそれが分かる。少しまえの常識の真意がわかれば、なんとなくわかる。古い人や古いものの接し、それを真似すれば、なんとなくわかることである。どの地にあって同じはずである。
「申」には「重ねる」の意がある。神とは「重ねて示すこと」になる。何度も何度も考えやって見て、自分の中の神性がすこし見えてくるのである。自縄自縛して自問自答して自作自演して自画自賛するのが、自給自足なのである。それが自尊自厳であり、そうして自己尊厳を養い、自分の中の神性に少しずつ気付くのである。
もともとの神とは、人間が動物から人間となるときに出来た創造である。動物には神の概念がない。動物は神だからである。自然にも神の概念がない。自然は神だからである。自身にも神の概念がない。自身が神だからである。
「神(かみ)」を古くは「かむ」といった。
「考え」を古くは「かむがへ」といった。
「かへ」は、「交へ・替へ・変へ」の意である。
「考え」とは「かむがへ」であり、「神変え」となる。
色々考えてきた人間は、それまでの神を色々変えてきたという洒落が成り立つ。
人間は、神の解釈や教義を時代により変えている。
今信仰熱い神は、ことば神や貨幣神やプライド・コンプレックス神などである。
これらのうしろには社会神がいるのである。
社会神とは人間神の集合体である。
個人が神に戻れば、社会神を感じことが出来るのである。
これに取り込まれてはだめである。
社会神を穢(けが)すことになる。
これを攻撃してもだめである。
それも社会神を穢すことになる。
ただ、間をとって、気配を感じ、平常心で付き合うのである。
それで互いの尊厳を穢さないことができるのである。
まずは、社会の中にある頭を、社会の外に出してみる。
それができれば、心や体も社会の外に出してみたくなる。
無論、すべてを社会から出せるわけではない。
残ったところに感謝に値する社会神の姿がある。