『まつり縫い』
夜。
風呂上がりでほかほかになった彼女がソファーに座る僕の前で足を止めた。
「こんな時間にボタン付けしてるの?」
「いや。ボタンじゃなくて、スーツの裾上げがほつれちゃったから、やり直してるんだ」
どこかにスーツの裾を引っ掛けた覚えはなかったのだが、昼過ぎに気づいた。スーツ姿で仕事をしていると、どうも足首の辺りがすんすんしていたのだ。
「裾上げ? それってどうやるんだっけ?」
「ん? とりあえず、ほつれてた糸を全部解いて、まつり縫いしてるだけだよ。小学生の時に習ったやつ」
「え。私は全く覚えてないなー。中学生くらいまでの記憶吹っ飛んでるからなあ」
家庭科で習った“まつり縫い”。
生地の表側には縫い糸が視認できないように小さく針を出し、生地の裏側で斜めに進んでいく。裾上げに使う一般的な“斜めまつり縫い”というやつだ。
このとき、布と糸の色はより近い方がよい。幸いなことに、ちょうどよい色の糸のストックがあった。
僕が裾上げをしていく様子を見つめる彼女は、無言で立ち尽くしている。消えたはずの小学生の頃の記憶を掘り起こそうとでもしているのだろうか。僕の手元には彼女の影が覆いかぶさり、針先が見えづらい。
彼女の影が僕に話しかける。
「ねえ、それ。いつから使ってるの?」
「ああー、このスーツは転職したときに買ったから、二年くらいかなあ」
「そうじゃなくて、その裁縫セットのことよ。いつから使ってるの?」
「え? ああ、小学生の時に買わされたやつだよ。糸さえ補充すればまだ使えるからね」
彼女が見ていたのは僕の手元ではなかったらしい。この美しい針さばきが目に入らぬというのか。
「裁縫セット、懐かしいなあ。私はキャラクターが描いてあるのがなんだか嫌で、クローバーの柄のやつにしたなあ」
「おい。小学生の時の記憶あるじゃん」
「うん。覚えてるよ!」
「開き直るなよ。まつり縫いの記憶はどこいったんだ」
「知らなーい」
と言って彼女はしゃがみ込み、僕の横にある裁縫箱に手を伸ばす。おかげで僕の手元からは彼女の影が消えた。
僕の横で裁縫セットがかちゃかちゃと鳴る。彼女は大きなお弁当箱みたいな裁縫箱を開き、中身を一つ一つソファーに並べていく。底板を拾い上げ、奥底に眠っていた布切れも一緒に並べる。
ひとしきり並べ終わると、今度は裁縫セットの中に散らばった短い糸くずをつまみ上げて集め始めた。
「使いかけの短い糸がちまちま入ってるね。これなんなの? 使えないなら捨てればいいじゃん」
「ああ。まあ、んん」
「それと、この名前シールなに?」
“青木のり人”と印字されたシールが裁縫箱の側面に貼ってある。
「見ての通り。僕の名前だ。小学生の時に買ってすぐに、自分で名前シールを作って貼ったんだよ」
「ふうん。あ、ノリくんの“範”は小学生の時には習わないのかー。だから、“のり”だけ平仮名なんだね」
僕の名前がどうしたのか知らないが、僕は裾上げを続けなければならない。彼女の糸くず拾いと、僕のまつり縫いは無言のまま続く。
ひとしきり短い糸くずを拾いきって、彼女はゴミ箱の方に行き、手をぱっぱと振った。彼女の指先から離れた糸くずを僕の視力では捉えることができなかった。
僕の前に戻ってきた彼女は再びしゃがみ込み、裁縫箱を眺めながら口を開く。
「気になるんだけどさ、このチャコペンの名前シールだけ手書きだし、柄も他と違って可愛いし、これなんなの?」
「え? ああ、それは何度か使ううちに最初に貼ったシールが剥がれてね。貼り直したんだろうな。曲面にシールを貼ると剥がれやすいし」
「そう。でも、この手書きの字、ノリくんの字じゃないでしょう?」
「んん。そういえば、そうかもしれない。」
──思い出した。チャコペンの名前シールが剥がれているのを見て、初恋のあの子が手帳の中のシールをくれた記憶がある。そして、初恋のあの子が書いた僕の名前。
“のりひ…”
「これさ。また剥がれかけてるよ。もう剥がしちゃっていいよね? どうせこの裁縫道具を使うのはノリくんしかいないんだし、誰かが取り違えることもないでしょ?」
「え? ああ、んん」
肯定とも否定とも取れる僕の返事を、彼女は肯定と受け取った。あるいは、返事なんてどちらでも良かったのかもしれない。
彼女は僕の返事を聞き終わるなり、びびびっとシールを剥がした。
何に満足したのか知らないが、彼女はにこにこと僕の手元を見ている。
「上手ね、まつり縫い」
「んん。まあ、慣れてるからね。僕は人生で何本かの裾上げを経験してるから。なんなら、まつり縫いのやり方、教えてあげようか?」
「ん。いい。私のスカートがほつれちゃったら、ノリくんが直してくれるもん」
「んん。いいよ」
「ね、家庭科で調理実習したの覚えてる? 私さ、授業で習った卵焼きの作り方、未だにずっとやってるんだよね」
家庭科で裁縫をした記憶は存分にあるが、調理実習の記憶が僕にはない。
「だめだ。僕は調理実習のことを忘れてるらしい。特に何も覚えていないや」
「ほら。小学生の時の記憶なんてそんなもんでしょ? なんなら、卵焼きの作り方教えてあげようか?」
「いや、遠慮しとくよ。今日の弁当に入ってた卵焼きがとても美味しかったから。いつもありがとう」
「んふふ。どういたしまして」
一通り縫い終わったスーツをひっくり返すと、中々の出来栄えだった。表側にはほとんど糸が見えていないし、変なシワも入らずにきちんとした裾上げになっている。
僕は裁縫箱にチャコペンと他一式を片付けて、余った糸の切れ端をゴミ箱に放り込んだ。
今夜、僕と彼女がベッドの上で絡まりあった所で、しばらくほつれることは無さそうだ。たとえ、ほつれてしまったとしても、僕が縫ってしまえばいい。
僕がまつり縫いにすれば、彼女がどんなふうに縫われているかなんて、ほとんど誰からも分からないはずだから。
(おしまい)