【雑記】デジタルと自然の海について
はい。こんにちは。
ここ最近、仕事で「AI」という言葉に触れることが多く、幾らか思考を巡らせている。そこで、特にまとまってはいないが、僕の中でのちょっとした雑感と思考過程を記録として残しておこうと思う(思った)。
だがだがしかし、キーボードを叩く僕の手はここで既に止まっている。そして、noteの画面にテキストを入力している自分に対して、疑問と怒りを覚えているくらいだ。
なぜ手を止めたかというと、本題に入る前に、僕のこの雑記が存在する理由を明確にしておきたくなったのだ。
以下は「僕がAIに関する思考を未来予測と合わせてテキスト化することに、果たして意味があるのか」という自問自答から生まれたテキストである。
前提として、(少なくとも現代の技術や知見からすると)「未来は予測不可能」である。車が空を飛んだり、ホログラムの故人と生活したりするなど、定番と言えるような未来予測を口にすることはあれど、これは未来予測の例示の一つに過ぎない。他にも誰の想像の及ぶ範囲でない事象が起きている可能性だってある。そりゃ当たり前かもしれないが、端的に言うと「可能性の範疇は想像の中だけにあるわけではないことを忘れてはならない」と僕は思っている。
例えば、数学会で「リーマン予想」が査読つきで正確に解決されれば、素数の非自明な性質が明らかになるかもしれない。
しかし、「リーマン予想が解決された未来」で何が起こるかは誰にも分からない。例えば、素数の性質が分かることで既知の暗号化技術が台無しになるかもしれない。数学会に革命が訪れて物理学に波及し、タイムマシンが開発されることだって想像できるだろう。
ただ、これらは予想可能な範疇の想像に過ぎないことを忘れてはならない。先に挙げた例を含めたようなものでなく、誰もかれもが予想できないような事象が起こるかもしれないのだ。例えば、一見数学とは関係なさそうだが、「一人一猫が当たり前の世界が訪れる」とか。
とにかく、主意として僕が言いたいのは「リーマン予想の解決」と「リーマン予想が解決された未来に起こる事象」は別のものであるということだ。
とはいえ、未来予測の例示を口にすることに意味はないのだろうか。
この疑問に対しては、「人間として意味がある」と僕は考える。言い換えると、人間として届く範囲としてちょうどよいため意味を持つ、と僕は思う。
未来予測は機械でも──それこそ生成AIにだって可能なはずだ。ビッグデータによる学習と、推論ができるシステムを持つAIであれば、意図を持った上で「車が空を飛びます」「ホログラムの故人と毎日を過ごせます」など、人間と同等程度の予測をテキストで出力することは可能だろう。
あるいは、AI技術に頼らずとも、従来型の方法でコンピューターを使うことで、未来予測の例示は可能だろう。例えば、現存する名詞と動詞を網羅的にシステムに登録し、すべての名詞と動詞を組み合わせたテキストを出力させる。出力された文章に対して、できるできない・無意味な表現であること等は無視して許容する。そうすれば、「蝶が掘る」「プリンターが走る」など、網羅的なパターンの例示は可能だ。これらの例示の中には人間の予想の範疇を超えるものが存在するだろう。
さて、コンピューターによる網羅的なパターンの出力に意味はあるか。
これは僕の考えだが、あまり意味はないと考えている。ものすごい量の例示が出力されたところで、先に挙げたような意味不明すぎる例を含んでいる。──いや、これは人間の想像の範囲外にあたるものも出力されるので、よいことと言えるだろう。
ならば、僕は何に対して意味がないと思うか。これは非常に単純なこととして、コンピューターを用いた網羅的な未来予測の出力は「当てずっぽう」なのである。この「当てずっぽう」感こそが、人間が無意味と感じるところだろう。(IT的に言えば、網羅的な出力(ブルートフォース)ができることに意味はあるが、人間的な心理として意味がないと言っている。)
そこで、例示は人間である僕がしておくべきだと思ったわけだ。(先述したようにAIでも意図をもった例示は可能だ。一方でAIでは試行回数を極大化することが可能であり、その意味ではブルートフォース的な出力になる。これは人間の価値ではない。したがって、AIが例示を出力しまくることにも人間の価値的な意味をなさないと考える。だから、僕がテキスト化すれば人間的な価値になるという解釈だ。)
もちろん、僕という人間が未来予測として例示した事象が実現されるかどうかについては、それはそれであまり意味をなさないが。
もう一つ、ついでに考えたことを記載しておきたい。「例示が実現されるかどうかについては意味をなさない」と書いた点である。
だって、考えてもみてほしい。世にあふれる言説において、例示の量ときたら邪魔くさいぐらい多いのだ。確からしさの検証も査読もされていないような例示の多さったらないと僕は思う。
僕が書いた小説も、あなたが書いたエッセイも、偉人が書いた体験記も、僕が書いたクソみたいなつぶやきもすべて例示に過ぎない。何も明確に示していない、新定理の開示と証明もない、証左もない(新説の提示はあるかもしれいないが、あくまで説の提示であって証左がないことを忘れてはならない。あなたは誰かの何かの文章を「ほうほう」と言って読むかもしれないが、ほとんどの場合、非常に明確な不確かさを常に含んでいることを忘れてはならないと僕は思う。(参考にする/しないは別として、「不確かさを含んでいる」と僕は言っている。これは生成AIによるテキスト出力でも同様である。)
もちろん、この記事ですらその一つであるのだが。
実際、確実な証左のある論文なんて、世に溢れているテキストや言説の数%──いや、数値的に意味をなさない程度に少ないだろう。(別論として、論文にあたろうと思っている人間の少なさにも問題があると思うが、これは別件であるので深くは記載しない。)
さて、あなたはどう考えるか。例示の重要性と、証明の重要性について。
僕は「例示はある一定数を超えたところから意味をなさない」と思っている。もちろん一定程度の数量の例示は必要だ。なぜなら、定理を理解できない場合においては理解の糸口になることがある。小説やエッセイだって同じで、(定理の証明ではないが)生き方の参考にするなどのため一定程度の数量は必要なのだろう。
また、必要とする例示の数量が受益者側によって異なることも理解できる。人によっては相当量の例示テキストを必要としており、例えば浴びるように小説を読んで、小説を書く力を身に着ける人だっている。しかし、例示が大量に必要だとして、有限であることはもちろん、その数量は自然数の全体からすれば非常に少ないのは明らかだと言える。
つまり、ここで昨今の情報化社会で触れ合える情報量の爆発的増加を考えると、一人が獲得すべき例示は非常に少数であり、明らかに情報過多な状態であると思うのだ。
端的に言うと、僕は例示の過供給状態を危惧している。
(誰も読んでいないのでこの際だから書いてしまうが、他人のつぶやきや記事なんて本気で気にしている人はいない。「あっそ」とか「ふーん」と思って読まれているテキストが大半だろう。あるいは、画面をスクロールする情報として流れているだけで、読解などされていないテキストの割合の方がはるかに多い(増加し続けている)と思われる。)
もちろん、情報化社会になり、触れ合える論文数の増加や学会界隈の情報交換の活発化があったことで、論文全体に関する情報も増えてはいると思う。
それでもなお、例示の供給過多であることには変わらないと僕は思う。小説もエッセイも、X(旧Twitter)もnoteも、Google検索で出てくる中身の無いクソまとめ記事も、ある一定数を超えてしまっているのではと僕は危惧している。
ただ、もしかすると、僕がここで言う「証左のあるテキスト」と「例示としてのテキスト」について、存在する割合に変化はないのかもしれない。では、割合が変わっていなければ問題ないのか、と言われると僕は疑問に思うのだ。
しかしながら確実に言えるのは、「証左のあるテキスト」が増え続けることは単純に良いことで、皆が歓迎すべきことであろう。だって、それだけ人間が得た確実な、本当に確実な知見が積みあがっていっているのだ。もしかしたら、数百年後には特定分野を研究可能になる程度の知見に対して、習得年数がとても増えているかもしれないが、それはそれで知見の積み上げからくる年数の上乗せである。なんなら、数学なんて一般の大学学部生レベルの学習で、やっと近現代最先端の数学に辿り着いているくらいだ(たどり着いているだけで、研究ができ論文が書けるかはまた別の話)。
※ここで昨今言われている論文の再現性等に関する不安定さは考慮していない。しかしながら、再現性が欠如したあとにも、確固たる論文が残り、その数が増えることは間違いないし、賞賛すべきことである事実は揺るがないと僕は思う。
一方、「例示としてのテキスト」が増え続けることに、何の意味があるだろうか。そもそも、僕らの人生は(今のところ)有限である。それに、ここ百年で比較したところで、飛躍的な平均寿命の延びはない。したがって、僕らが当たれる「例示」の数は、溢れかえっているテキスト量からすると極々限られた部分(非常に少ない)であることは間違いない。──それこそ、あなたがここまでこの文章を読んでしまった数分ですら、他のことに使えたはずであり、その分読むことができなかったテキスト(あるいは情報)が大量に発生しているのだ。
この文脈から言えば、「バズる」や「売れる」ことは、文章や筆者がピラミッドの上の部分から抽出されていたであろう過去の文豪誕生の有り様とは明らかに異なっているだろう。
つまりIT化したテキストの中で、ピラミッド構造が維持されていると考えるのは既に難しくなっているのではないだろうか。
言い換えよう。
「テキストが増え、読者が増え、筆者が増えると、(ピラミッド構造の強化に起因して)優秀なテキストや文豪が生み出される」──なんてことはもうありえないのかもしれない。
※IT化前の従来型のテキストがピラミッド構造だったかどうかについての証左はないが、少なくともIT化後のテキストにピラミッド構造は当てはまらないと僕は思う。考えてもみてほしい。全く同一のテキストを異なるユーザー、異なるプラットフォームに同時多発的に投下したとして、同一のインプレッションではないばかりか、インプレッションしている読者の属性も偏りを持った上でバラけている。そのテキストが「後から」、インプレッションという同一指標によって「(ある意味での)評価」をされているのだ。不安定極まりない。
したがって、「バズる」「売れる」現象に対する実力の要素が低下しているのではないか、と僕は考えている。
だからどうだと言われると僕の鬱憤でしかないので、もう少し別の言い方をする。
情報過多により、従来の「他者との関係性(人間同士の関係性)」が分断されている状況にあると僕は思う。人間が深く関係性を持てる他人の人数やグループは、特定期間に対して一定以上増えないと言われているらしい。このことから(少し飛躍するが)、情報過多は人間関係の希薄さを助長する一因になっていると僕は思っている。
雑多なテキストを読むたびに、人はその発信者と深く関わっているかというと、そうではない場合がほとんどだろう。noteにしろ、X(旧Twitter)にしろ、あなたが「深く」関わっているテキストの裏の人物がどれだけいるだろうか。
いや、否定しているのではない。SNSを通して、今までになかった他者との関りやグループの出現があり、「機会が増えた」点はメリットであると考えている。
だからといって、無尽蔵に、無作為に、証左無しに、例示をし続けることは一定数を超えると分断を生むだろう。これ以上詳しく書くと、あなたの想像力を見くびったことになると考えるため、更に言及することは差し控える。とにかく、「例示の過多」は、僕がここ最近「発信すること」に対して怒りすら感じている部分でもある。
僕はキリスト教徒ではないが、あえて言葉を借りよう。
「隣人を愛せよ」である。
本来の解釈はすべての人に対してめっちゃ優しくしなさい、というのが主流だと思うが、あえて曲解すべきなのは今なのかもしれない。僕らはもっと真に隣人を愛すべき時にきている気がする。
※「隣人」は電子的──あなたが手に持っているスマートフォンの向こう側の人──でもよい、と僕は思っている。
さて、長くなったが、あなたはこの文章の主題が分からないだろう。筆者である僕から説明すると、AIの話をしようと思ってやめた人の愚痴である。
おそらく、真剣に読んだ人はいないと思うので最後に記しておく。僕は真なる隣人を愛したり、こういった思考を巡らせているときの方が楽しい。
また、あくまで思考の記録ではあるが、整理されておらず冗長なテキストだ。だが、冗長であるからこそ取り留めなく、取り留めないからこそ、人間にしか理解できない真意が人間に目視すらできない形で内包されている。これが冗長なテキストを無駄に生む人間らしい僕の文章である。
しかし、このテキストは情報過多であるインターネッツの海では、ある意味ではあなたの生む文章と全く変わらない。これからもっと海を汚すために一役買うのだ。
さて、海や山が汚れると騒ぐ人がいる。また、その声の存在は認知されている。
では、インターネッツは汚れていないのか。インターネッツが汚れるとは何なのか。これらが定義できたとして、声を上げる人はいないのか。声を上げている人がいたとして、どうして僕達はその存在を認識していないのか。
このテキストを見ている以上、あなたもインターネッツの海で生きている。実際の海や山と、インターネッツの海はどう異なっているのか、どのような同一性をもっているのか。同一性があるとしたら、どのように保護し、僕やあなたはインターネッツの中で生きるために、インターネッツに対して、何をすべきなのだろうか。
僕は自然を愛しているが、インターネッツも愛している。
今この瞬間もまた海が汚れている。
おしまい。またね。