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歴史を追い、言葉を追い、空虚な資本主義を追う

感情に振り回される

僕が最近思うのは、やっぱり自分のことだ。
最近僕はようやく、自分が感情に振り回されることを意識し始めた。例えば「消えたい」とか「いなくなりたい」とか、そういうことを考えることは明らかに感情に振り回されている。そういう風に感情に振り回される時は、なぜそういう考えを抱かなければならなかったのか、その状況から整理を始めるのが良いそうだ。疲れているからだ、とか、仕事がつまらないし先が見えなくて不安だからだ、とか。
なんでこういう風に感情に振り回されるのを自分で許してきたのか。答えははっきりしている。僕は幼少期の頃の自分の傷を引きずって、人が怖いとして回避してきた。回避というのは、つまり自分の感情に振り回された挙句、人と付き合うのをやめてしまうことだ。短期的には安全になる。だけど中長期的には経験が積めないので後になって再度人と付き合おうとして失敗する。失敗するので余計に感情に振り回されるのを許してしまう。
誰も教えてはくれなかった。誰かが教えてくれる性質のものではないのかもしれない。結局は自分で気がついて自分で直そうとすることが一番早道で簡単なんだろう。誰かが問題なんじゃない。世界は、人間は、一番楽なあり方を模索するもので、僕のことをよくわかっている人は皆、こうやって僕が気がつくのを待つのが一番早道だとわかってそうしたのだろう。本当にそうした心がけをいただいて、ありがたいことだ。
一段落前で人と付き合うのをやめることを回避だと書いたが、回避しているのは自分の率直な気持ちなのかもしれない。自分の感情をそのままに放置するから、感情に飲み込まれてしまう。

今回の本

今回僕らが読んでいる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、僕は第23刷を手に入れた)、略して『プロ倫』。この本のタイトルにも精神という言葉が入っている。そもそも精神とはなんだろうか。資本主義とは精神なんだろうか。資本主義に精神なんかあるのだろうか。
今回読んだ第一章にも、資本主義を身にまとった人々が軽い調子で仕事を進める様子について書かれている。そうした人々に「精神」なんかあるというのか。それは・・・もちろんあるだろう。誰にだって精神はある。何か大切にしたい感覚やイメージがある。生きているということそのものが、イメージや感覚を抱き続けることでもあるだろう。
しかし、その軽々と動く資本主義者達をどのように分析すればいいというのだろうか。その内実のなさに対してどの様に分析を進めればいいのだろうか。おそらくこの本の着想の原点はそこだろう。捉えどころのない、空虚な資本主義をプロテスタンティズムという宗教から捉えようと試みた。

プロ倫、第一章

目次

第一章 問題
1 信仰と社会層分化
2 資本主義の「精神」
3 ルッターの天職観念ーー研究の課題

気になったところ

主に「2 資本主義の『精神』」と「3  ルッターの天職観念ーー研究の課題」が気になった。

「各人は自分の『職業』活動の内容を義務として意識すべきだと考え、また事実意識している、そういう義務の観念がある。ーーこうした思想は、資本主義文化の『社会倫理』に特徴的なもので、……構成的な意味をもっている」(p.50)唐突に憲法を思った。日本国憲法に書かれた勤労の義務は、日本国が資本主義社会を肯定していることを端的に示している。
そうかといって、企業家や労働者たちが働くために「倫理的原則を主体的に習得していなければならぬ、ということでもない」(p.51)
資本主義は経済淘汰によって経済主体を教育して作り出してゆく。しかしその淘汰の起源はなんだろうか。「生活態度や職業観念があらかじめ成立していなければ」ならない。
「貨幣を渇望する『衝動』の強弱といったものに資本主義とそれ以前の差異があるわけではない」(p.54)かつても現在同様に貨幣は渇望された。しかし、資本主義的に、労働を行うことによって貨幣を渇望するというわけではなかった。

利益追求と伝統による拘束の併存

かつて自由な営利活動は「事実上寛大に扱われているに過ぎないというのが普通だった」(p.55)。

近代化に応じて出来高賃金制が導入された。労働者をより働かせようとして出来高賃銀率は上げられた。その引き上げに対して、労働者は仕事を減らした。時間に応じた賃金が引き上げられるなら、働く時間を減らしても暮らしてゆけるだろうと算段したのだ。
このように、これまでと同じだけの報酬を得るためにどれだけの労働をしなければならないかを考えるのが「伝統主義」の生活態度だ(p.65)。できる限り簡素な生活を目指すのは現代のミニマリズムに通じるだろう。
しかし、低賃金で大量に人を雇用する労働のあり方にも限界がある。より効率的な経営をするためには労働者により多くの賃金を支払うことが必要だ。労働者はその賃金を対価に栄養をつけ、充実した生活をもとにした宗教教育を受け、そこから生まれる克己心や節制に支えられた知識、技能をつける(pp.66-69)。こうしたあり方が良しとされるようになる。

では資本主義の精神と伝統主義は完全に対立するのか。否。互いに混じり合い、適合し合う。そして資本主義の精神は明らかに伝統主義的な経済という母体から生まれている。
伝統主義的経済には以下の要素があった。すなわち「事業経営を支配していたのは、伝統的な生活標準や伝統的な利潤量や伝統的な労働量、また伝統的な事業経営の様式、労働者や本質的に伝統的な顧客層との伝統的な関係、顧客の獲得や販路などの伝統的な様式」である。(p.76)
そうしたあり方に対して、資本主義的精神の持ち始めた、伝統主義的な「問屋制前貸を営む家族出身の一青年が都市から農村に出かけ、自分の要求に合致する織布工たちを注意深く選び出し、……農民的な彼らを労働者に育成する。」(p.76)
彼ら資本主義精神の持ち主たちはなぜそのように醒めた目でたゆみなく仕事を行うのか。彼らは自由主義的啓蒙思想に染まっているのか。彼らはビジネスライクな軽い調子で仕事をこなしているのか。確かに今日ではそうだとウェーバーは言う。彼らは宗教に比較的無関心で、働くことといったら子供や孫のためと言ったりもする。が、より多くの人物はそれよりも、そもそも休み無く労働することが「生活に不可欠なもの」となってしまっているとするだろうという。(p.79)
これは我々もそうだ。我々もほとんど仕事を内面化させられ、仕事が人生であるかのように思い込まさせられている感触がある。全く自由ではない。人々は労働を、不思議と強制されて飲み込んでしまっている。
このあり方に対して不思議であるとするのは、客観的に考え始めた我々だけではない。資本主義以前の伝統主義者達も同様だろう。なぜ、いつから、貨幣を稼ぐという生活態度が我々の世界観と関連していると考えるようになったのか。
かつては宗教的権威が生活態度について決定してきたが、次第に国家による商業政策や社会政策によって世界観が決定されるようになってきている。「かつて資本主義は、形成期の近代的国家権力と結合することによって、はじめて古い中世的経済統制の諸形態を破砕しえたように、宗教的権威との関係についても、……そうしたことが起こりえたのではなかろうか」(p.82)
資本主義と宗教的権威の関係は、資本主義が破砕した。なぜならば「貨幣の獲得を人間に義務づけられた自己目的、すなわちBeruf(天職)」(pp.82,83)は、現代以外のどの時代の道徳感覚にも反しているからだ。近世からあった資本主義的営利は教会によって「寛容されているにすぎ」(p.84)なかった。そのような資本主義的精神はなぜ天職の概念を作り上げることに成功したのか。そうした問いに答えるのがこの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というわけだ。

なるほど、伝統主義から資本主義は生まれていった。つまりは人々が合理化を望み、それを受け入れた結果、資本主義は広まったということか。そう結論づけたくなるところでウェーバーは即座にそれを否定する。単に合理化していったわけでもない。生活の各領域で合理化が並行して起こっていたわけではないからだ。「経済的にもっとも合理化されたいくつかの国々ではこうした私法の合理化が最も遅れ」(p.93)た。資本主義の考え方が合理化とはずれた形で進行したとすれば、それは一体どのような「精神的系譜に連なるものだったのか」(p.94)。

興味を失った

あとは興味を失ってしまった。ルターが天職を訳す際に二つのラテン語の単語を一つにまとめてしまったとか、カルヴァンがルターの天職概念を、自分たちの「救いの確証」の問題を解決するために引きずり出した、とか、本当に色々と書いてあった。ルターは労働に対して道徳的な認識を示しつつ、伝統主義的でもあったため、資本主義の精神を進めることができず、カルヴァンの登場を待つしかなかったようだった。
結局はカルヴァンが問題なのだ。第二章が読みたくなった。

おわり

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