健康概念の拡張としての精神分析
はじめに
今回僕らはブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』を読んでいる。
だけど、僕はそれにもまして、そもそも「健康」ってなんだっけと思うようになってしまった。(いきなりでごめん)
僕は本当に不用意な人間で、とにかく色々と想像する。『ラカン派精神分析入門』の4ページ目に
とあった。この部分を読んで、あれ、そもそも「症状」ってなんだろうかと思う。というか、満足を症状が与えているなら、それでいいじゃないかと思った。それが健康ってことではないの?
健康とは?
僕は健康について気にし始めてしまった。
だってそうじゃないですか。日本の状況を考えてみましょうよ。いや、日本が大きすぎるなら、あなたの身の回りを考えてみてください。精神的に問題を抱えていそうだなって思う人、結構いませんか? つらいつらいっていつも言っている人がいませんか? でも、どうしてそういう人は精神医療に気軽にアクセスできないんでしょうか。
いや、問題を抱えながら、もうアクセスできているって人もいるかもしれません。ですけど、私個人としてはどうしてもそういう人は少ない気がする。これは私の偏見なのかもしれないですけど、でももっと精神医療に簡単にアクセスできてもいいんじゃないかと、ふと思ったんです。
私が『ラカン派精神分析入門』を読む動機というのは、つまりそういうところにあります。私は精神医療について全くの素人ですが、もっと精神医療が人びとにとって身近になったらいいなと(本当に僕の勝手ではあるんですけど)願っていますし、そういう願いがこの本を読む動機になっています。
でも、精神医療を紹介したり、「あなたのそのつらさって、結構楽になるものですよ」とかって言ってあげるのって、それこそ大変です。というか素人だから確実に絶対何かしらの間違いが発生してしまう。それに、つらそうにしている人がそのつらさについて楽になることを想像するのが難しい。想像しようにも考えられない。なぜなら精神の病気だから。
だとすると、もっと大枠から攻める必要があるんじゃないかと考えました。つまり、じゃあ「あなたは本当に健康か」と問うていく必要がある。健康かどうかを疑ってみることで、もしかしたら精神の問題なのかもしれないと気がつけるのかもしれない。もちろん精神以外の病気であるケースもあるかもしれませんし、それならそれで、自分で気がつけるのはその人にとって良いことかもしれません。(あれ、しかし自分が病気であることに気がつくというのは本当に良いことなのでしょうか。少し後で考えてみます。)
では健康について考えてみます。しょうもないですし、精神医療からちょっと離れるのですが、私は今寝不足なので睡眠の観点から厚生労働省のe-ヘルスネットを読んでみます。
ここには睡眠不足がさまざまな病気へつながっていることが示されています。
だけど・・・それでも思うんです。
いいじゃないか、睡眠不足だって。病気になったって、個人の勝手、というか、体が勝手にそうなっていくのだし、仕方がないじゃないか。もちろん人に病気をうつして感染させてしまうのは迷惑をかけていることになるけど、自分一人で病気になっていくのを許してもらえないというのは、なんとなく居心地が悪そうだ、と。
やっぱり健康ってなんだろうなと思った僕は、その名の通りのMildred Blaxterさんが書いた『健康とは何か』を読んでみました。
健康の定義
健康というのは、ちょっと考えてみると簡単に思いつくことですが、定義が難しいです。
普通に暮らせることとか、毎日充実していることとか、色々言えますが、じゃあ暮らせるって何とか、充実しているって具体的にどう思うことなの、とか、色々疑問が出てきて、それに答えるとまた新たな定義の問題が出てきます。
この『健康とは何か』という本は主に欧米における健康についての議論がまとめられています。健康について人があれこれと考える中で、その社会的表象について述べられています。
例えばイギリスの全国的調査について。調査の回答は5類型にまとめられると書いてあります。
ここでの確認は大雑把にしておきます。まあ健康って色々あるけれど、とにかく「良好」「病気でない」っていうのが重要視されるよねってことをざっくり見た上で、もう一度『ラカン派精神分析入門』に戻ります。
なぜ精神分析に通うのか
問題を直視したくない患者と分析家の欲望
精神医療というのは基本的に、本当に基本的にですが、患者の考え方を治そうとするものだと考えます。さて、では患者はどのようにして医療にかかろうとするのでしょうか。考え方を治すだなんて、人はそんなに考えないのではないでしょうか。それが、どうしても考え始めてしまう。よほど健康的ではない生活なのかもしれません。元気がないと自分でわかってしまうから、精神分析に行き始める。
何かがうまくいかない。そう考えて色々医療にかかった結果、精神医療に来る。何がうまくいかなかったのか、行動が裏目に出るのはなぜか、なぜ人間関係が破綻するのかについて患者は相談しに来る。
しかしラカンは言う。患者にはそうしたうまく行かない理由を知らないままでいたいという願望が存在するのだと。
元に患者が相談するところのうまく行かなさに気づき始めると、治療を行うことに患者は抵抗しはじめる。患者には「知ろうとしない意志」がある。
いきなりおかしな話が出てきています。なにせ、病人が辛いと思っているにも関わらず、治りたくないとも思っているなどと言い始めるのですから。
いくつか譲ってそのように患者が思っているのだとしましょう。ですが、であるならばそんな状況で精神分析という取り組みは続くのでしょうか。
皮肉にも、分析家の欲望だけが、この患者の知ろうとしない意志を克服させるのだ、というのがラカン派精神分析の主張です。つまり分析家が患者に対して分析を取り組もう、取り組もうと発破をかけるようなあり方が、患者の知ろうとしない態度を変えていくというのです。
享楽
さて、いずれは患者が治療に抵抗し始めるのだとして、どうして初めは治療を受けに分析家のところへくるのでしょう。ここでラカン派の独特な考え方が出てきます。
ラカン派は人間が単に凡庸な満足を求めているだけではない、と主張します。
こうした「苦痛の中の快あるいは不満足のなかの満足」のことを「享楽 jouissance」と表現する。この享楽が、実際に自分好みの方法では得られなくなってしまったり、得られなくなりそうだと患者が思うことで、患者は治療が必要だと判断するようになる。
うーん、ここも難しい。はっきりとは分からない。
しかしまあ、なるほど享楽というのがあるというのもなんとなくわかります。少々気分が悪いものがなんだか楽しくて仕方がない、みたいなことは人生に結構あったりしますから。
ですが、そもそも精神分析に行こうとするのは、自分には不快な病状があって、それを取り除いてほしい、つまり医療的な施しを受けに来る、というのではないってことが書かれているようです。
ということを考えると・・・もしかしたら上で考えた健康とは少し離れたことを精神分析では目指しているようにも思えます。なぜなら健康とは「良好」「病気でない」の一辺倒だったわけですから。
健康を拡張する享楽
享楽とは単純に「幸せ」や「嬉しさ」を表しているわけではない。ですが、享楽が得られることもまた、幸せの一つの定義なのかもしれません。そういう意味で、享楽は健康を拡張させているのかもしれません。よくある幸せの議論ですが、嬉しいときには嬉しさを感じることができ、悲しいときには悲しさを感じることができるのが幸せなのだ、嬉しいだけの幸福など一側面に過ぎない、というやつです。
そうそう、それでいったら精神分析における解釈はこのようにかかれています。
健康的な生活というのは、単数の意味ではなく、複数のごちゃまぜな意味合いから出来上がっていて、精神分析は患者に対して、その現実を直視させようと試みているようです。
次回は…
少し長くなったので、今日はここまで。
次回は、象徴的なものを想像的なものへ書き換えるということの部分が面白かったので、そこのあたりを中心に書いてみます。次回の締め切りより早めに…。
2023/11/18追記
「自分が病気であることに気がつくというのは本当に良いことなの」かを考える、と書いておいて、書いてなかった!💦事に気がつきました…。
つまり僕が言いたいのは、健康であれ病気であれ、あまりにも単一的な意味として捉えることに問題があるだろうという事です。
そういう単一化について精神分析も加担しているのかどうかが気になったのですが、どうやらそれを避けるように享楽の概念が導入されているように見えます。今私にわかるのはそれぐらいでした。また考えてみます。