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故郷が土砂災害に襲われた”マスコミ”の僕が後悔し勇気づけられたこと
ふだんマスコミとして災害取材をしている自分が、2013年に故郷の伊豆大島で起きた大規模土砂災害に直面、苦悩した時の話です。故郷を傷つけてしまい後悔したこと、逆に勇気づけられたことを当時の経験から振り返ります。
2013年伊豆大島土砂災害とは
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2013年10月、台風26号が日本に接近。
伊豆大島では15日夜から16日にかけ雨が強まり、16日未明に土石流が発生、死者・ 行方不明者は39人にのぼった。
私は当時、記者からの取材原稿、カメラマンなどから送られる映像をもとにテレビのニュースを制作する部署にいた。かつ15日からの泊まり勤務。つまり、さまざま寄せられる情報の一部始終を見られる位置だ。
10月15日夜 強まり始めた雨
泊まり勤務に入り、台風特設ニュースの体制に加わる。もちろん台風が伊豆大島に接近していることは知っていた。接近に伴い大島で観測される雨も強まってきている。自治体が避難を呼びかける目安になる土砂災害警戒情報も発表されている。しかし、関東南部などでも雨風ともに強まってきていてそちらにも目を配る。
「大島は水はけがいい、多少の雨なら大丈夫なはず・・・」
大島で生まれ、自然の中で育った私は火山灰質の土壌がよく水を吸い込む事を経験していた。また、大雨が降って土砂崩れが多少起きても大規模な災害につながったことがないことも経験していた。ただ、これは私の短い「経験則」にすぎない。ふだん、災害報道で「過去の経験則にとらわれないで」と呼びかけているにもかかわらず、「地元は自分が一番よくわかっている」という誤った経験則が感覚を狂わせていた。
10月16日未明 相次ぐ記録雨
状況が一変していると感じ始めたのは午前0時を過ぎてからだった。雨雲レーダーでも伊豆大島の同じ所に強いエコーがかかり続けている。実況でも1時間に50ミリ以上の激しい雨が観測される。
そして気象庁から「記録的短時間大雨情報」があいついで発表される。大島で1時間に100ミリ以上の雨が解析されたからだ。自分の少ない経験でも、ここまで雨が降り続いたことはない。このまま行くと過去の累積雨量の記録を超えるような雨に・・・。
「これは・・・ただ事ではない」
そして不安が現実となった
10月16日明け方 災害の”一報”
「大島で土砂災害が発生している」
取材している記者からの一報が入った。
映像も次々に飛び込んでくる。川のようになった道路、まだ現場には近づけない状況だが住宅の多い地域にも濁流が押し寄せている。当時現地には偶然にも複数のカメラマンがいた(潜水班で大島は合宿地となっている)。
行方不明者の情報も入ってくる。明るくなってくると町の中に大量の土砂や木が流れ込んでいる様子も確認できた。濁流が流れ込んでいる沢の上流にも多くの人が住んでいる。そこには同級生も知人もいる・・・。
10月16日朝 志願してスタジオへ
「スタジオにださせて下さい!」
「これは数十人規模で被災している。私が一番地理がわかっています。直接島の人に呼びかけたいです」
思わず上司に掛け合う。
当時私は取材の立場ではなかった。制作側がスタジオに出ることは異例のことだ。志願に対し「これは取材記者がやるべきだ」との声も。しかし私をよく知る上司の1人が言葉を発した。
「ここには家があって被災者が多くいるんだな。おまえが一番よくわかっているんだな。じゃあおまえが出て島の人に呼びかけろ」
急いでジャケットを着てスタジオに入る。
まもなくすると大島上空に到達したヘリコプターから映像が入ってきた。
・・・ない、見えない、あったはずの家がない。残っていても下の階に流木や土砂が流れ込んでめちゃくちゃに壊れている。
「山が大きく削られています。土石流とみられ、大変危険な状況です。まだ地盤は不安定で今後の二次災害も心配されます。ここには山頂に向かう道路があり、ここは小学校。この場所には・・・、複数の・・・複数の住宅があり・・・」
私のこの時点での仕事は、正確に冷静に地元の状況を説明し、地元の人に今後の注意を呼びかけることだった。でも友人や知人、多くの島の人の笑顔、元の美しい風景の思い出が次々とうかぶ。「経験則で判断するな」と言っていたのに経験則で判断していた自分。もっと事前に警戒を呼びかけることが出来たのではないか・・・自分のふがいなさに声が詰まった。
「金森さん、おつらいでしょう。私がつないでおくので無理なさらず・・・」
スタジオに同席し、私のことをよく知っているアナウンサーからの優しい言葉。スタジオなのに我慢していた涙がにじんだ。
10月18日~ 故郷の大島へ
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「1人でいる母が心配です。ここではわからない島の状況も見にいきたい」
2日後、私は大島に向かっていた。仕事ではなく、休みを取らせてもらって。母が1人で暮らしている実家の状況はもちろん、現地の状況を肌で感じなければと思ったからだ。
まずはすぐに現場に向かった。大量の土砂が残る現場。ほとんど無くなっている友人の家。なんとも言えぬにおい。変わり果てた風景に言葉が出なかった。行方不明者の捜索活動は続いている。地元の消防団も泥だらけになりながら同胞の姿を探している。その近くでぼう然と立ち尽くす住民も。
そこには私の会社の同僚はもちろん数多くのマスコミの姿もある。現地にできた会社の前線本部もあり、立ち寄った。「取材できる知り合いはいないか」問われたが、悩んだ末、断る。伝える側の人間として失格だと思いながらも、自分の知っている同胞に状況を聞く気力は無かった。さらに傷つける気がしたからだ。
しかし、ここで改めて気がついた。私がこれまで続けてきた「被災者を取材する」ということは、こういうことなんだと。取材して情報を伝える重みと相手を傷つけかねない取材の重み。傷つける可能性がある取材を進めてまで伝えなければいけないことは何なのか、それをまず考える。デスクとなった今でも若い記者に伝えている。この時の答えのない問いを思い出しながら。
現地で寄せられたマスコミへの批判
幸い実家には大きな被害はなかった。
ただ、こうした中でマスコミに対する苦情が私に寄せられることになる。
島で私を知る人の多くは、私が記者であることはわかっている。テレビ局、新聞社を問わずマスコミ全体への意見が私に数多く寄せられた。「大輔」「だいちゃん」と私が島の子で気軽に話せる立場にあったからだと思う。
「スーパーの弁当が買い占められている」
「現場で声を立てて笑っていたやつがいる」
「宿のFAXや電源を無断で使われた」
多くのマスコミが詰めかけた役場の関係者からも
「こちらに配慮せず答えるのが当然と高圧的だ」
「許可無くカウンターの中に入ってきて困る」
「ゴミを役場に捨てていき、片付けていかない」
私に寄せられたマスコミへの意見の一部。たとえこれが自分の会社でないとしても、急いで共有しなければならないと思い、会社に伝えた。そして現地での行動指針を改めて作ってもらった。小さな島でおきた災害、役場の人も含め今はみんなが被災者だ・・・私の思いも加えて。
しかし、こうした意見を受け止めているうちに、私は故郷で知人に会うのが怖くなっていた・・・
知り合いに会うのが怖い・・・
その後2日間、私は大島に滞在したが、実家周辺の点検や、会社の同僚や専門家を案内するという役に徹した。現場付近には立ち寄れなかった。
ー 事前に警戒を呼びかけられなかった
ー 不信感をもたれたマスコミの1人
苦しい思いをしている島の仲間たちは、自分のことをどうみるのだろう。会っても何を言われるかわからないし、うまく言葉がかけられるか自信が無い。
ふだんは災害を伝える仕事をしながら、地元の人に言葉を伝えられることに怖さをおぼえていたのだ。
同級生との再会 かけられた言葉は・・・
あすは帰って仕事を再開しなければならない。会社の仲間も私のわがままで休んでいる中、これ以上迷惑をかけられない。
最後にもう一度祈りたいと思い、現場に向かった。捜索活動は続いている。遠くに仲間を探す知り合いも見えたが、心の中で「何も出来ずごめんなさい」と言うのが精一杯だった。
足早に現場を離れ、車に乗ろうと駐車場に向かったその時のことだ
「だいちゃーん!!」
いったん道路を通過した軽ワゴンがバックで戻ってきた。パワーウィンドウが下がる。見えたのは島の中学校時代の同級生だ。
「ごめんな、ごめんな・・・。何も出来なくてごめんなさい」
思わず私の口から出たのは謝罪の言葉。
「何言ってんだよ、テレビみたよ。だいちゃんでよかったよ。俺も気合い入れて頑張るからさ、だいちゃんもだいちゃんの持ち場で頑張ってくれよ」
強く抱きあった。大人とは思えないほどの涙がこぼれる。
島のために、と力を尽くしたつもりになっていて何も出来なかった自分。最後の最後で力をもらったのは、むしろ私の方だった。
仕事再開 島の人にもらった勇気
島を離れて東京の職場に戻り、仕事を再開する。
大島土砂災害の状況や捜索の状況など、現地で取材された原稿や映像をもとにテレビのニュースとして制作する。「だいちゃんの持ち場で頑張って」当初は故郷が苦しむ現状を記した原稿や素材を見るのがつらかったが、これが自分の責務だと考えて歯を食いしばった。
そして2週間近くたった時、親から離れて島外避難をしていた子どもたちが船で島に戻るニュースを制作した際だ。目にした映像をみて島の人たちに率直な気持ちを伝えたいという気持ちになる。
島の友人も多く見ているSNSで、いまの思いを発信した。
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地元の先輩から 突然の電話
批判されることを覚悟した投稿。ただただ、島に生まれ育った自分が感じた責任と、島の人たちへの感謝の気持ちを伝えたかったのだ。そして、この投稿をした数日後、役場で働いていた島の先輩から突然電話があった。
「大輔、見させてもらったよ。娘が見ろっていうからさ」
少し酔った様子の先輩。役場でも私たちマスコミは迷惑をかけている。何を言われるか緊張していたが、すべて受け止めるつもりで聞く・・・
「大輔、ありがとうな。オレも役場に来てた子どもぐらい離れた若い記者の兄ちゃん姉ちゃんに偉そうに詰問されて頭にきてたけどさぁ、オレなりにちゃんと答えようと思ったよ、それも仕事だからさぁ。でも、オレたちも必死なんだよ。それがせめてわかってほしかったんだよ。もやもやしてたけど、大輔がこんな風に思ってくれていたことがわかってオレ感動しちゃってさ」
最後は互いに涙声だった。
思いがけない「ありがとう」の言葉。結局、ここでも傷ついた大島の同胞に、私が救われることになったのだ。
新たな決意
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あれから8年が経過した2021年11月、私は大島の住民を前に講演する機会をえた。私が小学生の時に遭遇した1986年の伊豆大島噴火災害(詳しくは文末リンク)から35年がたつことから、伊豆大島ジオパークさんのお誘いで当時の状況や今の噴火のリスクを説明することになった。
この中で、本筋からはずれるが大島土砂災害についても触れなければいけないと思い、当時の思いや反省を含めて話した。当然、土砂災害で被災した人もいたので反応が怖かったが、顔が見えないところでつぶやく無責任なSNS発信だけでなく、ちゃんと自分を島民の目の前にさらして、ちゃんと気持ちを話す必要があると思ったからだ。
講演が終了したあと、昔の恩師、先輩などが次々に私の所にきて懐かしそうに話しかける。そして遠くの席では男性が待っている。あの災害で家が破壊され、大切な人を失っている友人だ。
久々の再会に何を言っていいかわからなかった私。友人はそんな私の手を強く握りしめ言葉をかけてくれた。
「よかったよ。これからもがんばって。だいちゃん」
・・・ああ、これで私はこれからも頑張っていける。
これからも防災を伝える決意を新たにした。
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