長編小説『くちびるリビドー』第11話/2.トンネルの先が白く光って見えるのは(5)
そのベンチに横たわる人を、どうして彼だと確信できたのか。
ただ私には「わかった」のだとしか表現できない。
そして、どんなにそれが安っぽい恋愛映画にありがちな、わざとらしい演出を施されたワンシーンのようでも、私にとっては特別な意味を持つ「啓示」だったのだ。
恋は、そんなふうに唐突にやって来て、私を落っことす。
もしも未来の私が上空からこのときの様子を眺めていたとして、まだ何も知らない私に「その人があなたの運命の相手ですよ」というサインを送ろうとしたなら、やっぱり同じ方法を試みると思うから。私はきっと、どうしたって逃れられない。
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くちびるリビドー
湖臣かなた
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〜 目 次 〜
1 もしも求めることなく与えられたなら
(1)→(6)
2 トンネルの先が白く光って見えるのは
(1)→(6)
3 まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風
(1)→(8)
2
トンネルの先が
白く光って見えるのは
(5)
憧れだった写真学科のある専門学校へ進んだ私は、一日の講義がすべて終わった夕刻のひととき、帰り道の途中にある小さな公園の木陰になるその場所で、バイト代で購入した中古カメラを手に寛ぎながら(気分はまるで中学生のあの頃のまま)、夕飯のメニューを考えたり小腹を満たしたりする一人の時間を日常のささやかな楽しみとしていた。
季節は夏。二年生になり日々の授業はますます面白く、卒業後のことを考えるよりも暗室でフィルムを現像することに夢中だった私は、自分と同じ年に生まれた「ライカM6 クラシック・シルバークローム」にズマロンの35mmレンズを取り付け、すっかり虜になっていた。
その日、いつもの指定席には先客がいた。
がっかりしながらも私は仕方なく西日の射し込む向かい側のベンチに座わり、当時ハマっていた富良野産トマトジュースを飲みながら、そこに横たわる男の無防備な姿にチラチラと目をやった。
片腕を枕にし、顔の上にノートのようなものを広げたまま、おそらく眠ってしまったのだろう。一方の腕は死体のようにだらりとベンチから垂れていて、なんとなく時間の経過を感じさせた。
「まったく、こんなところで熟睡できるなんてね」とか思いながら私は、相手が眠っているのをいいことに母ゆずりの無遠慮さでレンズを向け、ファインダー越しにその様子を眺めたりしていたはずだ。
キィーーコ。
キィーーーコ。
いつものように少し向こうでは二人の女の子がブランコに揺られていて、耳慣れたリズムを刻んでいた。
カラスたちが急に鳴き出し、何らかのサインを送り合いながら飛び去っていく。
太陽が陰り、空を見上げると雲がぐんぐん押し流されていた。そして、しっとりとした生あたたかい風が吹いてきて、彼の黒髪がサワサワ踊って――。
その瞬間、なぜだかわかった。
それが母のお気に入りの「鉄板焼き屋の靴職人」であることに気づいた私は、今にもシャッターを切ってしまいそうだった指を離し、カメラから顔を上げ、まじまじと彼を見つめた。
そう。彼がアルバイトの大学生であることを知ったのは、つい最近のこと。
あんなにも焼きの上手な彼のことを私たちは「プロの料理人を目指している若き調理スタッフの一人」と思い込んでいたから、店で見かけなくなった彼のことを母が訊ねたとき、卒業制作が忙しくなりバイトに入れる日が減ってしまったこと、そしてもうすぐ辞めてしまうことをこっそりと教えられ、驚愕したばかりだったのだ。
彼についての情報がそれ以上開示されることはもちろん無く、それは彼との「ほぼ永遠の別れ」を示唆していた。母は落胆し、私たちが鉄板焼き料理を楽しむ機会は、これからぐっと減りそうだった。
その彼が今、数メートル先にいる(と私の直感は告げていた)。
「おぉ~、世界は意外と狭い!」と密かに興奮しながら私は、それが本物の「鉄板焼き屋の靴職人」であるかどうかを確かめるべく、目覚めの瞬間を待った。
風が強くなってきて、分厚い灰色の雲の層がこちらへと近づいていた。
彼の顔を覆い隠しているノートが飛ばされてしまいそうで、それを口実に声をかけて素顔を拝ませてもらおうか、などと考えているうちに辺りは湿り気をおびた重い空気で満ちはじめ、さっそく――ポツリ――と雨粒が落ちてきた。
むわんと広がる雨のにおいを嗅ぎ分けながら、愛しのライカを急いでリュックの中にしまい込み、立ち上がる。
生い茂る木々の葉や草木の表面をつるりと撫で、土でも砂でもないような公園の地面に静かに吸い込まれていく雨のにおいは、アスファルトを濡らすときの埃っぽいにおいとはまるで異なり、心に熱帯雨林とスコールを描かせる。
ポツリ――ポツリ――。
降り出した雨粒の大きさは激しさを予感させるものだった。
子どもたちが声をあげ、近くのマンションの中へと消えていく。
私は自転車と一緒に、葉の茂った一番大きな木の下へと避難した。
パラパラパラパラ――――……。
さっきまで夕刻のオレンジ色を湛えた日差しに照らされていたはずの公園の風景は、今やモノトーンの薄暗いヴェールの向こうに沈みつつあった。ベンチの上の彼は、別世界にでもいるかのように微動だにせず眠ったままでいる。
まるで誰かが黒いインクを零してしまったかのように、不吉な感じの雨雲がむくむくと上空を侵食しはじめ、最近多くなったゲリラ豪雨のニュースが私の頭をかすめた。
「濡れちゃいますよ!」
意を決してベンチの前へと駆け出し、声を張り上げる。
バラバラバラバラ――――。
「んんー……」
スローモーションで顔に乗ったノートに手を伸ばす彼はやはり、その人だった。
「雨、強くなってきましたよ」
「……あめ?」
「いろいろ濡れちゃいますよ」
「……あぁ、本当だ。……どうも」
そう言葉を返しながらゆっくりと起き上がり、周囲を見渡す。
まだ寝ぼけているのか、それとも雨のことなど気にならない性格なのか、まったく慌てる様子のない彼を前に、私はその腕を引っぱり起こしたくなる衝動を抑えてひとり、木の下まで走って戻った。
あのペースに巻き込まれていたら、こっちまでびしょ濡れになってしまう。
そんな考えとともにハンカチを取り出し、半ば呆れながら興味深くその様子を観察していると、ようやく彼が駆け込んできた(まずは何か拭くものを貸すべきか……でも他人のハンカチなんて私だったら御免だし、ここは無難にポケット・ティッシュか? でもでも「大丈夫です」とか言われてあっさり拒まれそうだしなぁ……などと内心ドキドキしていた私は、彼がきちんと自分のハンカチを手にしているのを見て、どれだけほっとし気が抜けたことか。ついでに「ハンカチ男子」として、彼の好感度までアップしてしまったくらいだ)。
その大きな木の下は、小雨であれば余裕で雨宿りできそうな場所ではあったけれど、雨足の強まりつつある今ではもう葉の隙間から次々と雫が滴り落ちてきていた。豪雨になったら、しのげそうにない。
「やみそうにないですよね~」
雨を見つめながら、さり気なさを装って私は言った。
あの……鉄板焼きの店で働いてましたよね? とは聞ける雰囲気じゃなかった。私のことを覚えているような素振りなんて一ミリもなかったから。
すると「雷」と、ふいに彼が言葉を放った。「鳴ってたら、ここヤバイですよ。木の下は」と。
「カミナリ……?」
「落ちたら、死にます」と真面目な顔で空を見上げ、目覚めた彼ははっきりと言葉を口にした。まるで大昔の学者が無知な民衆に重大な事実を告げるときのような厳粛さで。
私は思わず耳を澄ませて、上空の様子をうかがった。
もしもゴロゴロと雷鳴が響いてきたら、いったいどこに逃げ込んだらいいのだろう。
そんな不安を滲ませながら、主人を待つ犬のようにじっと耳を傾け、ふたりは無言のまま立ち尽くし続けた。濡れた服がしっとりと肌に張り付いて、袖のあたりが気持ち悪い。
どのくらいの時間、そうしていただろう。
雷鳴は轟かず、心配していた豪雨にもならず、西の空が明るさを取り戻しはじめたのを確認し、私は胸を撫で下ろしながらそっと彼の横顔を盗み見た。
少しずつ弱まっていく雨をぼんやりと眺めているその頬に雫が落ちてきて、涙のように伝っていった。
私のこと覚えてますか? バイト、辞めちゃうんですか? どこの大学に行ってるんですか? 卒業制作ってことは、四年生ですか? 何の勉強してるんですか?
聞きたいことはたくさんあった。この機会を逃したら本当に「永遠の別れ」になってしまうだろう。だけど、やっぱり何も聞けなかった。
しばらくすると彼は「じゃあ」と小さく呟いて、降りやみつつある雨の中に駆け出して行ってしまった。もちろん振り返ることも手を振ることもなく。
「あーぁ、行っちゃった……」としぼんでいく気持ちを、遠ざかる後姿を見送りながら溜息とともに吐き出した。
そもそも一度だって彼は、私の顔をまともに見なかったのではないだろうか。
偶然がもたらした奇跡のワンシーンも、彼の記憶には一切残らないのかもしれない。
そのまま木の下で完全に雨がやむのを待ちながら私は、洗いたての公園内を見渡して、再びカメラを取り出した。
水滴をまとってツヤツヤと輝く草木や遊具やベンチに向かって、いつものように「いいね~、いいよ~」と心の中で声をかけていると、なぜだか妙に慎ましやかな気分になってきて、私は「一枚だけ」と神経を集中させてシャッターを切った。
驚き、喜び、後悔、願い。そんなふうに自分の気持ちが明け透けになるような写真など、私の趣味ではなかった。被写体にはいつだって、愛ある透明なまなざしを向けていたい。
それなのに。ファインダーを覗き込みながら、私はためらいを覚えていた。
しかし、その事実を冷静に受け止めつつも、どうしても私は記録せずにはいられなかったのだ。さっきまで確かに彼が存在していた、この見慣れた公園の風景を――。
気を取り直してカメラをしまい、サドルの水滴を拭き取る。
そして。
雨あがりの清々しい空気を吸い込みながら、スーパーまでの道を自転車で飛ばしているとき、目の前のひらけた空に、私は見た。
雲が流れ、雨のカーテンはもう東の空の下へと移動していた。
光のスペクトルは何かを暗示するかのように、その少し手前にじんわりと現れた。
「虹だ!」
発見の瞬間、心に歓喜の声が響き渡る。
見る者を無償の幸福感で満たす、光の魔法。
赤から紫へ、そのグラデーションは徐々に色濃くなり、それぞれの波長を可視させる。
私は自転車を止め、生まれたばかりの神秘の移ろいに目を凝らした。
大きな弧を描く七色のラインは両端のほうから少しずつ鮮明さを増し、光を放ちながらじわじわと頂点に向かって伸びていく。水分をたっぷりと含んだブルーグレイの空に、筆で引いたようなカラフルな太線が滲み出し、音もなく世界を内と外とに二分する。
虹とは、空に架かる一本の橋などではなく、巨大なシャボン玉のように大地を包み込む半球状の光の膜みたいなものなのかもしれない……そんな想像を膨らませながら、虹色のドームにすっぽりと覆われた遠くの街を見つめる。
すると、最も波長の短い紫色の光線からスモークでも出ているかのように(そこで焚かれているのはきっと秘密の薬草だ)ぼわんと霞がかっていくドームの内側は、こちらから射し込む西日を受け、みるみるうちにピンクグレープフルーツの果肉のように恋の色へと染まっていった。
いつしか私は期待を込め、目を瞠っていた。
もう一つ。ひとまわり大きな弧が、今まさに、淡い光で空を渡ろうとしていた。
「わぁ……」
それは初めて目にするダブルレインボー。天からの祝福のメッセージ。
どこかで彼も見上げているだろうか。
あの横顔を想い浮かべ、そっと祈るような気持ちで思った。
少しだけでも覚えていてくれたらいいな。雷の木の下で一緒に佇んでいた私のことを。そしていつかまた、きっとどこかで――。
カメラに収めてしまったら今度こそ魔法が消えちゃうような気がして、私はただただ静かに、その二重に架かった虹を見つめ続けた。
*
~第12話へつづく~
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長編小説『くちびるリビドー』を楽しROOM
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