Breaking Dawn ~2019、人生の夜明けが見たい~
はじまりましたね、「2019」。
今年はいよいよ天王星が牡牛座へと動きます。
あの“2011年3月”からの7年間+1年(2018年は牡羊座と牡牛座の間を行ったり来たりの移動の年でした)が、次のステージへ進むとき。
今、なにが見えていますか?
立ち上がったそれぞれの「I am」は、私たちをどんな世界へ運んでいくのでしょう……。
いや、この「I am」 を連れて行くのは「今の私」。いつだって、そうですよね。
自分の望む世界を、夢みる世界を、“現実”に創造できるのは自分自身だけ。
そんなことを、年明けからあらためて――。
想いを馳せる時間を大切に過ごせるということは、実はとっても贅沢で、自由で、
流されることなく自分のペースで、リズムで、今年もこの「日常」を
生きていきたいなと、新たな気持ちで確認している今日この頃です。
今年の私のテーマ
「Breaking Dawn ~人生の夜明けが見たい~」
迷いながらも一歩一歩、自分の中の「真実」を探りながら
後悔のない「選択」と「決断」を積み重ねて――2019年も、私は行く!
というわけで、久しぶりのこの場所。この時間(と、これを書いたのは1月9日。実際は、これが私の「2019、初・長文note」だったのだが、じっくり時間をかけたくて、今は亡き?→定番化した『 #熟成下書き 』にしてたのです。でも読み返してみたら意外と“真夜中のラブレター”みたいな気分にならなかったので、「なんだ、私、綴れてるじゃん!」と思った。正月ボケはしてなかったようだ……)。
ホームページに新年のあいさつ文などを連ねたりしていたら、『初心忘るべからず』が頭をよぎった。チカチカと点滅を繰り返している。
全然、忘れてなんかいない。
だけどこうして「文字」で確認すると、やっぱりぐっと腹に力が入るな。
気合い、注入。
自分の“中心”を忘れてはいけない。
他人の考えや習慣に流されて、同じことをしよう・しなければという気分に取り(捕り?獲り?盗り?採り?)付かれていては、大事なものを見失う。時間もエネルギーも、無自覚に失うことになる。
そんなことをしている場合ではない。
人生は「有限」だ。
もちろんこれも忘れてなんかいないのだけど……。
“ここ”が自分の居場所になりうるのか、よくわからなくなったのだ。
だから、動かずに様子を伺いながら、そして徐々に距離をとりながら、じっとしていた。
じっとしていて正解だった。
じっとしていた自分を――他人の流れに乗っかった、中途半端で、自分にとってはまるで意味のないような文章を、“こんなの意味なくない?”と密かに感じながらも気づかないふりをして垂れ流すような、そんな自分の「美学」「好きな生き方」に反するような行動を、どんなに心がざわついてもとらなかった自分を――ほめてあげたい。
この年末年始、私は自分の意志で長文を綴らなかった。noteとの距離感を広げ続けた。そして自分の内側と少し遠くの場所(未来?)に、じっくりじっくり耳を澄まし続けた。
私が本当にやりたいことは、ここに、こういった文章を、綴り続けることではない。
私が本当にやりたいことは、こういうものを、つまり日常の、人生の、気づきその他もろもろを全部『物語』へと昇華して、『作品』を生み出すこと。それを魔法のたっぷり詰まった『本』にして、世に放つこと。誰かのもとへ届けること。
想像と創造。
私は作家で、ライターみたいなことがしたいのではない(どっちが上とか下とか、そういう話ではない。種類?が違うのだ。結局のところ私が興味をもてるのは『物語力』なのだ。スキのたくさん集まる記事を書きたいのではなく、その内容をどうしたら『物語』に転換・昇華できるのか、ネタは全部作品のために取っておきたいのだ)。
だけど、“書くこと”で少しでも「お金」を稼げるのであれば、それもいい、それは素晴らしい、そんな気持ちでここへ来た。
でも、やっぱり「違う」。
それとこれとは、全然異なる。
こんなんじゃ意味がない。時間が、「この命を使って“一番に”したいこと」に注ぐための時間が、どんどんどんどん無くなっていく。無くなっている。
そう、こっちに、こういうことに、使っている場合ではないはずなのに!!!
そして案の定、「違うこと」をしていても世界はちっとも広がらない。笑っちゃうくらい、現実は変わらない。
だけど、試してみたかったから。ここまでは、それでいい。
それでいいとして、ここからは――???
時間をかけて取り組んできた作品がある。
この↓『砂漠を横切るラクダのように』は、その作品を世に出したくて、なんとか私を知ってもらいたくて、いわば名刺代わりのように書き上げたものだった(「名刺代わりなのに有料なのか?」と問われたら、「 はい、そうです。それだけの時間とエネルギーを捧げています」と私は答えるだろう。今の私は、そう言える自分になれたし、ここにはタダではあげられないものを込めているから)。
その大切な作品(『砂漠を横切るラクダのように』を書く前に時間をかけて取り組んできたもの)を、同じようにこのnoteで発表していいのかどうか、私はここ最近ずっとずっと心の奥で、頭の片隅で、探り続けていたように思う。
大切だから、誰かに批判されたり反応がなかったりすることが怖いというのではなく、こんなふうにネット上に無防備に置くことが(私はインターネットにそれほど詳しくはないので)、なんだか……どうしても……不安なのだ(note内でも盗作騒動のようなものが発生しているようだし)。
なので、まだ考え続けている。自分の本心を、探り続けている。
「本当は、どうしたいのか?」
「すべてが叶うとしたら、何をどう願うのか?」
そんなようなことを。相変わらず、今ここでまた、真剣に。
“気軽に創作&発表しよう! それをやり続けよう!”というのは、今の私が求めていることと微妙に異なるということが、こうして実際にやってみたらわかった。
そこで語られる「クリエイト」と、私の中の「クリエイト」は、何かが異なっている気が、今はするのだ(こういう違和感は見逃したくない)。
たとえば。毎日、毎週、毎月、時間を決めて「とりあえず何でもいいから発表する」というスタイルは、私がやりたいことじゃない。
もっと時間がかかることを、時間とエネルギーと驚くほどの集中力と、おおげさじゃなく「命」を使って、燃やして、人生をかけて取り組んでいくようなことを、私はしたいのだから。
結局、私が創りたい私の居場所は『本』の中――『物語』の世界の中だけなのかもしれない。
まだ、うまくは言えないのだけれど。
後悔のないように、じっくり探って、選択&決断していきたいと思う。
今の自分が考える「ベスト」を尽くそう。積み上げていこう。そうじゃなきゃ、どんなに時間を使ったところで、自分が望む道はひらけていかないだろうから。私がそう思う限り、私の現実はそういう働きをするのだろうから。
こういう時間はとっても大切。この嗅覚も。
信じてやっていこう。