終わり時
三月の終わりごろ、外出をしなくなった時期から、毎週ほぼ欠かさずに参加していたオンラインの5リズムのクラスがある。
ファシリテーターはイスラエル人のアディという女性で、ガイドの仕方も、選曲も、画面を通してつたわってくる繊細でダイナミックなあり方も、私にはとても合っていた。最初の頃、たぶん私の顔を見てどこの国の人かわからなくて「ニーハオ!」と挨拶してくれたりしていた、おおらかな感じも好きだった。
5リズムでは自由に体が動くままに踊る。だから、その時の自分の心と体の状態が自然にあらわれてくる。
最初に彼女のクラスに参加した時は、踊っている途中で涙がこみあげてきて、世界で起こっていることに対して、自分が思っていたよりも悲しんでいたし嘆いていたのだと気がついた。
次のクラスでは、内側で火が燃え始めたみたいに、創造の力とでも呼べるような感覚がわき起こってきた。
その次の回では、心の奥にしんしんと積もっていたさびしさが静かに出てきた。
体に力が入らず、途中で休み休み踊った時もあった。
自分のカメラをオンにしておくのが全然平気な時もあったし、つけたくない、見られたくないと思う時もあった。
毎回、ああ、今、私はこんな風に感じていたのか、と、発見があった。それは頭で認識していたのとは、いつも少し違っていた。そうして、一時間踊ったあとには、始めた時よりも自分の中心にもどっているのを感じた。
体はほとんど外出せずに家でじっと過ごしていたけれど、内側ではほんとうにいろいろな変化があったこの二ヶ月、このクラスはそのプロセスの大切な一部になっていた。それに、家族や友人と直接会うこともできなかったから、画面を通していろいろな国の人たちと一緒に踊ることができるのも楽しみだった。
だから、先々週、ファシリテーターの彼女が「このクラスは来週が最後になるわ」と、発表した時には、一番にさびしいな、と思った。
彼女も少しさびしそうに、
「毎週ほんとうに楽しみにしていた、すごく素敵な時間だった。終わるのはさびしいけどね…」
でも、すぐに、ぱっとあかるい顔になって言った。
「でも、今がその時だっていう感じがするから」
それを聞いた時、心から、そうなんだな、と思った。
なんの疑問も迷いもなく、ただはっきりと。
それが大きな世界や宇宙の流れなのか、二ヶ月の間、毎週一緒に踊ってきた人たちだけが共有している感覚だったのかはわからないけれど、きっと彼女が感じたのであろう同じ感覚を、私も感じていた。「今がその時」だった。
理屈じゃなくて、ただ、そうなんだとしかいいようがなかった。
いいことでも悪いことでもない。ただ、その時がきただけ。
じゃあ、しょうがないよね、と、思った。
そうやって、最後のクラスの日がきた。
始まる前は、今日で終わりかあ…と、ちょっと憂鬱になったりもしたけれど、動き出したらそんな気持ちはすぐに吹き飛んだ。みんなが今日が最後という意気込みで参加しているからなのか、一体感と高揚感がすごかった。睡眠不足で疲れていたはずなのに、体に力が満ちてきて、いくらだって動けそうだった。
楽しくて、気持ちが良くて、私はずっと笑っていた。
最後にはやっぱり涙が出て、でもそれは、この時間がなくなることが悲しいのももちろんだけれど、それ以上に、嬉しくて出た涙だった。
それは、終わるべき時に終わることのできるよろこびだった。
ひとつの体験が終わるべき時にすっと終わらせてあげることができた時、重ねてきた時間の素敵なところ、楽しくてきらきらしたところが、一番きれいな形で残る。それはその体験に対する最高の敬意になるし、次のはじまりに向かう力になる。そんな気がする。それがイベントやプロジェクトであれ、関係性であれ、もしかしたら命そのものでさえ。
終わり時を逃しても、素敵なところや楽しいところはちゃんと残るけれど、引き延ばした分、外側に埃がたまったりして、それを落としてほんとうの輝きにふれるまでに少し時間がかかるのだと思う。
普段から踊っている人は、体でタイミングを感じてとらえるのが上手なのかもしれない。
せっかく集まったつながりだから残しておきたいとか、この先の何かにつなげようとか、未練や損得勘定に流されないで、終わらせる決断をしてくれたアディに、そんな彼女と二ヶ月間一緒に踊れたことに、とても感謝している。