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沈黙と評価【短編小説】

「それでは、始めてください」

静まりかえった大学の講堂に、試験監督の厳かな声が広がった。それを合図に、物音のアンサンブルが始まる。

シャー。サラサラ。キュ。カチカチ。スー。ガタガタ。コン。カリカリ。

それらとは相容れない「ふぅー」という生の人間の吐息を、俺はマスクの下でついた。そして「すぅー」と空気を吸う。静かに。ゆっくりと。決して周りにバレないように。

指揮者がデクレッシェンドの合図を送った時のように、いつの間にか周りの音は控えめになっていた。

呼吸を整えて、ようやく「情報」と書かれた表紙をめくった。そのまま1ページ、また1ページと左手で分厚い冊子を繰りながら、右手の親指ではカチカチとシャーペンをノックする。「第1問」の文字が見えたところで一旦手を止める。あとは、この冊子と解答用紙をいいバランスで机に配置し直せば……。よし。準備完了だ。

真正面に据えた黒い腕時計を見やると、17時を2分ほど回った頃である。俺は再び深呼吸して、解答に取り掛かった。

「すみません」

しばらくして、右後方から声が聞こえた。囁くようなか弱い声でありながら、俺にはハッキリと届いた。ということは、恐らく数メートルしか離れていない席の人が発しているのだろう。

やや間があって、バリトンボイスが続いた。

「はい。どうかしましたか?」

「すみません、あのー、お手洗いに行ってもいいですか?」

「あ、分かりました。では、一緒に行きましょうか」

ガタガタ。キュ。コツッ。トン。スタ。スタ。スタスタスタスタ……。

徐々に遠ざかっていく足音の向こうで、キイーと会場のドアが軋む音がした。やがて、またキイーと鳴って、足音が近づいてきた。

トン。ゴツ。カタカタ。シュ。スタスタスタ……。

再度遠ざかっていく足音に、黒の面積の増えた答案から顔を上げる。時刻は、17時40分を回ろうとしていた。俺は「ふぅー」と息を吐いて、短く息を吸った。口に入った空気は、まるで持久走のあとみたいに乾いていて、苦しい。

俺はおもむろにMONOを掴み、通路側にスっと落とした。ほぼ同時に、左手の指先をピンと伸ばして天井に突き上げる。目線は問題に落としたまま、シャーペンで大事そうなところに下線を引いていく。4本ほど引いたところで、「どうしましたか?」と声をかけられた。

「消しゴムを落としてしまって。拾っていただけますか?」

周りの迷惑にならないように「はい」と小声で答えると、試験官は床をキョロキョロと眺め出した。意外にも早く見つかったようで、前屈の姿勢で拾い上げて、俺に手渡してくれた。「ありがとうございます」と伝えると、彼はとんでもないといった様子で、すぐに会場の巡回に戻った。

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

「はい、これで共通テストの全日程が終了となります。みなさんお疲れ様でした。会場の外は暗いので、くれぐれも気をつけてお帰りください。改めて、みなさんお疲れ様でした」

テスト開始の合図とは打って変わった試験監督の穏やかな声に、受験生達は帰りの支度を始める。俺はサッサと身なりを整えると、足早に会場を出た。

みなが右に曲がる通路を左に曲がり、長い廊下を奥へ奥へと進む。突き当たりまで来たら右に曲がり、直進。その突き当たりを今度は左に曲がった。こんな薄気味悪い通路、初めての人なら怖くて、途中で引き返そうと思うに違いない。ちょうど、5年前の自分のように。

ようやく目的地に到着した。白い扉には「長沼ゼミ」と書かれている。ノックをすると、「どうぞ」と声がした。

「おお、峰くん」

「ご無沙汰しております」

「1年振りだな。ささ、まずは座っておくれ」

長沼先生は、俺を手招きして椅子に座らせた。「何か飲むか」と聞いてくれたが、俺は丁重に断った。今日は妻子と出かける用事があって、早く帰らねばならないのだ。

「はい、中身を確認しておくれ」

先生はぶっきらぼうに、分厚い封筒を手渡した。手渡されたそばから、俺は右の親指の腹で、1枚、2枚とゆっくり数えていく。48、49、50。

「確かに、ちょうど50万受け取りました。今年もありがとうございます」

「いや、こちらこそありがたいね、本当に。なかなか頼める人がいなくてな。どうしても、かつてのゼミ生の中でも、君みたいな気の合うヤツに限られてしまう」

「まさか同僚に頼むわけにもいかないですもんね」

「そうなんだよ。で……」

先生の次の言葉を察知して、俺は「今年で終わりにします」と言った。

「え?」と返す先生に、心の内をさらけ出した。

「今年で、この仕事は終わりにさせてください。給料は申し分ないですけど、俺には向いてないと思うんです。先生の頼みというのもあって5年続けて来ました。けど、もうしんどいです。わざと試験官の言動を試すようなことをして、評価を下すなんて。だって、不正がないように目を光らせて、受験生がトイレに行きたいって言ったら付き添って、公平な試験を平穏に遂行しようされているですよ? そんなみなさんをジャッジするのは気が引けるんです。だから……」

「辞める、ということだね?」

口調こそ柔らかいものの、そこにはそこはかとない哀しみが漂っていた。

「そうか。いや、長い間ご苦労さんだったね。君には大変な心労をかけてしまい、申し訳ない。しかし前に話したように、私も敬愛する人からの頼みでね。この大学と、新しく始まるテストがうまく運用されるように、チェックしてほしいと。お金は弾む。やり方も任せる。ただ、悪いものは排除して、良きものを目指してほしい。本物をつくる手伝いをしてほしい、とね」

先生は俺の顔を見つめながら、よどみなく話した。まだゼミ生だった頃、先生に進路相談をしたことがあったが、その時もこんな表情だった気がする。

「まあ、来年から頼むことはないから安心してくれ。でも、たまには会いに来てくれると嬉しいかな」

先生は、照れくさそうに白髪をかき分けた。

「はい! また会いに来ますよ」

「じゃあな。身体には気をつけて」

先生もお元気でと言って、俺は薄暗い廊下に出た。

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

スタスタスタスタ……。

峰くんの足音が完全に遠ざかるのを待ってから、私はコーヒに口をつけた。完全に冷えきっていて、全く美味しくない。

私はポケットからスマホを取り出して、電話帳を開いた。さっき峰くんの話を聞きながら、彼と同期のゼミ生の名前を思い出したのである。こういうのは、忘れないうちに取り掛かる方がいい。下の方にスクロールしていき、彼の名前をタップすると、3回のバイブの後に声がした。

「もしもし。庄司ですが」

「おお、庄司くん。急に電話かけてすまないね」

「いえいえ。長沼先生、どうかされました?」

「実は、折り入って君に頼み事があるんだ」

「はぁ。頼み事、ですか」

「もちろん、タダでお願いするわけではない。手伝ってくれたら、うんと報酬を弾むよ」

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かなりあ
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