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vol.12 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
ブルーは『悲しみ』、または『気持ちがふさぎこんでる』ってことだよ。
今回紹介する本のタイトル、ブレイディみかこ氏の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
著者の息子さんがノートの端に書いたこの言葉。
息子さんは「ブルー」の意味を「怒り」を意味して使ったらしい。
天才か。
ワードセンスが光る本著は、多文化共生、異文化理解についてエッセイ形式で日本人にも分かりやすく解説してくれている。
だから、この本を読んでもらった方が良いのは前提として、今回は、私が刺さった言葉を引用しながら、多文化共生において必要なマインドについて考える。
① 容認
多様化とは個人化という言葉にも言い換えられるほど、細分化し複雑化していると感じる。
多様化した社会のレイシズムには様々なレイヤーが生まれていて、どんどん複雑になっていく。移民と一口に言ってもいろんな人種がいるし、出身国も違う。移民の中にも人種差別的な言動を取る人はいるし、やられたらやり返す人たちもいる。その攻防戦を見ている英国人は英国人で、どちらかの肩を持って他方に差別的言動を取ったりする。
社会が目まぐるしく変わり、制限され、苦しいと感じると、人を容認する余裕なんてなくなってしまう。
ただ、その容認がないとさらに苦しくなっていく。窮屈に、息苦しくなる。
知らぬ間に自分で自分の首を締めているのだ。
子どもがこういう時代錯誤なことを言うときは、たいていそう言っている大人が周りにいる、
これは人種やマイノリティに関してだけではない。
全てにおいてそうだと言える。
子どもは自分の周りにいる大人を通して自分の世界観を広げていく。
情報が溢れかえり複雑化すると、二者択一したくなる。「これが正しい」と心の拠り所が欲しくなる。
分断とは、そのどれか一つを他者の身にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるものなのかもしれない、と思った。
「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
こっちがダメならあっちがある、のオルタナティヴが存在するからだ。こっちしか存在しない世界は、こっちがダメならもう全滅するしかない。
「AかBか」ではどちらも幸せになれない。
選ばれなかった方はもちろん、選ばれた方も、選ばれ続けなければならないというプレッシャーを背負い続ける。
自分が属する世界や、自分が理解している世界が、少しでも揺らいだり、変わったりするのが嫌な人なんだろうなと思った。日本に戻ってくるたびにそういう人が増えているような気がするのは、わたしが神経質になりすぎているからだろうか。
森岡毅氏の言葉を借りるなら、自分の理解している世界のことを、パースペクティブという。
「AかBか」の二者択一になってしまうのは、「AもBも」の世界を知らないからだ。
多文化共生、異文化理解とは、「AもBも」選べる余裕を持つこと。
その余裕はどうしたら生まれるのか。
2つ目のマインドは、「知ること」である。
② 知る姿勢
「楽ばっかりしていると、無知になるから」
「AもBも」の余裕を手に入れるために必要な苦労がある。
それは「知ること」である。
「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
多文化共生や異文化理解は、学ぶ原動力になる。
人間が本来持っているはずの知りたいという欲求を満たす。
ただ、これは著者がいうようにめんどくさい。
私がこのめんどくささを感じたのは、アメリカで寮生活をしていた時。
他人と共同生活することすら初めてだったのに、言葉も通じない、生活リズムも違う、掃除のクオリティも、担当制にしようと向こうが言っておいて守らない、など問題だらけ。(しかもこれを問題だと思っていたのは私だけだと知った時は、とてつもないショックだった…)
挙げ句の果てに、ルームメイトと大喧嘩をしました。
しかし、この喧嘩から学んだことは、
1. 英語力が伸びたと実感。(多文化共生関係ないね、笑)
2. 喧嘩しても解決しないどうしようもないことがある。
3. 人の意見なんてそうそう変わらない。むしろそれを受け入れない私の方が心が狭いと思われる。
特に、3つ目を理解するには時間がかかった。悪いことをしたのは向こうなのに、それを許せない私の方が悪者扱いというか、雰囲気悪くしてますよ、状態だった。
この時の私は、自分の認識できる世界しか知らなかった。
しかし、めんどくさい喧嘩を通して、新しい世界、別のパースペクティブを手に入れることができた。
新たなパースペクティブに最初は抵抗があるかもしれない。
でもそれを手に入れた後の世界は、自分も他人も救っていくのだと実感した。
事実、喧嘩した張本人とは分かり合えなかったけど(途中で帰国してしまったこともあって)、半年間共に過ごしたルーミーと号泣しながら別れることとなった。
③ 誰かの靴を履いてみる勇気
自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にそれば、empathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」を訳される言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。
英語では、"To put yourself in someone's shoes" という。
「誰かの靴を履いてみること」というのは、「エンパシー」という言葉と同義語である。
「エンパシー」は度々「シンパシー」と混同される。
エンパシー:他人の感情や経験などを理解する能力。自分とは違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力。
→知的作業。
シンパシー:誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと。ある考え、理念、組織などへの指示や同意を示す行為、同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解。
→感情的状態。
エンパシーのポイントは、エンパシーは能力であるため、後から身につけることができるし、誰にでもできる点である。
善意はエンパシーと繋がっている気がしたらだ。一見、感動的なシンパシーのほうが関係がありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た境遇の人々に共感するときには善意は必要ない。
他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、と考えていると息子が言った。
他人の靴は、そう簡単に履けない。
サイズが合わなかったらどうしよう。
靴ずれしたらどうしよう。
そんな不安が先走る。
では、どうしたら他人の靴を履くことができるようになるのか。
靴下を履けばよいのでは。
裸足で人の靴を履くのには抵抗がある。
でも、靴下を履けばある程度チャレンジできるのではないか。
私のいう靴下とは、「自分の価値観」である。
自分が一番大切にしたいと思っていること。
自分の信念が守られれば、他の世界を容認することができると思う。
だから、私は自分の靴下を選んで、他人の靴を履いてみようと思う。
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