時間切れ!倫理 121 林羅山・山崎闇斎
林羅山
林羅山(1583~1657)は、家康に仕えました。朱子学者なので漢文は読めるし、書ける。幕府の行政文書は全て漢文なので、文書の起草に活躍したといわれています。以後幕府は林羅山と朱子学を大事にします。やがて、林家の朱子学の塾は、幕府が運営する昌平坂学問所となり、林羅山の子孫が代々この学問所の長官をすることになります。昌平坂学問所は幕末まで続き、現在の東京大学の源流の一つとなっています。
なぜ幕府が朱子学を大事にしたかというと、朱子学は秩序を重んじたからです。特に、林羅山は身分が大事だといいます。
彼は「上下定分の理」といって、身分制度が永久不変であることを説きました。徳川幕府は士農工商という身分制度を固めました。この身分は絶対です。「それは正しい」と林羅山はいってくれるわけです。念のためにいっておきますが、戦国時代までは違いますからね。豊臣秀吉は農民出身です。それが関白にまで成り上がる。徳川家康はそのようなことはもう絶対に許さないわけです。武士は武士、そういう考えを正当化し、さらにいえば幕府の支配体制を正当化します。
また、戦国時代が終わったので、殺し合いはおしまいです。武士の在り方も変えていかなければなりません。そこで林羅山が説いたのが「存心持敬」です。言動をつつしみ、礼儀をただすべきだと教え、これが徐々に武士の道徳として受け入れられていきました。やがて武士は戦士ではなく殿様に仕える礼儀正しい官僚となっていきます。
山崎闇斎
藤原惺窩、林羅山の系列とは異なりますが、山崎闇斎(1618~82)も朱子学の学者として覚えてください。君主に対する臣下の服従を強調しました。徳川幕府にとっては身分制度を守るために都合のよい教えですね。
ただ山崎闇斎に関しては、このことよりも、神道と朱子学の結合をめざして新しい神道である垂加神道(すいかしんとう)を作ったことの方が有名です。朱子学の日本化と呼ばれていますが、私には中身はよく分かりません。入試対策としては、垂加神道と聞かれたら山崎闇斎と答えられれば良いです。