時間切れ!倫理 114 法然
その最初の1人が法然です。元々は比叡山で修行していました。しかしやがてそこから離れて浄土宗を起こします。比叡山から京都に降りてきて布教活動を展開しました。彼が書いた本が『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』です。
法然がおしえた易業、簡単な修行は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えること。これを専修念仏(せんじゅねんぶつ)と言います。ひたすら念仏を唱えなさいということです。南無というのは偉大なという意味で、偉大な阿弥陀仏様と唱える。そうすれば救われると言う。誰でもできます。すごく簡単だから庶民は飛びつきますね。末法を思想が流行っていますしね。
法然はギリギリ平安時代にかかっています。多くの人がこの教えを受け入れて、京都では一般庶民の間で信者が増えていきました。
法然は地位のない者、貧しい者も救われると教えます。法然の言葉をのせておきました。読んでおきます。
「…もしも、堂塔を建立し、仏像をつくることによって本願(救われるということです)とされると、貧しく賎しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、裕福な者は少ないのに、貧しく賎しい者は非常に多い。もしも、智恵や才能のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智恵のない者は往生する望みが完全に絶たれたことになる」「極楽往生するためには、ただ南無阿弥陀仏と唱えればよい」
それまでは極楽往生するためにはお寺に多額の寄付をして仏塔を立てるなどしなければだめだとされていた。そんなことでは貧しい者は救われません。だから、念仏を唱えるだけで良いのですよと言う。貧しい一般庶民向けの教えですね。
多くの信者や弟子が法然のもとに集まるのですが、様々な議論が生まれてきます。念仏を何回唱えればいいのか。たくさん唱えれば唱えるほど効果があるのか。一回だけでも良いのか。1回唱えれば極楽往生が出来るのならば、人殺しでも強盗でも何でもやっておいて、後から一回南無阿弥陀仏と唱えて救われたらいいのではないか。そういうことを言う人も出てくるし、そういう人が現れることを心配する人も出てきます。この教えは危ないのではないかと、朝廷で問題にする人も出てきて、やがて弾圧されます。法然たちのグループはみな流罪となりました。法然は四国に流罪。弟子たちも流刑になるのですがその中の一人が親鸞です。
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