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分かるということ②

前回は五感に関して、テレビの画面という壁を無くして演者と一つになることについて書きました

そこでは演者が感じるであろう五感の刺激を視聴者も身体全体で想像して感じると演者と視聴者が一つになりえるという事を書きました。

今回はそれに関してもう少し踏み込んだ話を書いていきたいと思います。

映画、アニメ、ドラマといった所謂、物語ものでこれが役に立ちます。
物語というのは色々な登場人物がいて、色々な個性があり、ぶつかり、ドラマが生まれます。それらの過程で登場人物に感情移入すると思います。
しかしその感情移入というはせいぜい画面という壁を隔てた状態で、視聴者という立場にいる人間が涙するといった程度で、登場人物と一つになっているには違いないかもしれませんが、まるで「自分=登場人物」と思えるほど深くはないと思います。涙する程度と書きましたが、それももちろん良い経験です。ただここではもっと踏み込んだアプローチをするとさらに登場人物の心境をリアリティーに感じることができ、より深く物語を楽しめるかと思います。

登場人物と一つになるには、その登場人物の幸福を理解しなければなりません。人間(もちろん動物でも宇宙人でも結構です)は必ず幸福を求めて行動します。不幸を求めて行動する人間など存在しません。例え自殺をする人でも、周りの人から見たら不幸な事かも知れませんが、本人にしてみたらそれが生きることよりも幸福だから自殺をするわけです。生きていることが幸福なら自殺などするはずがありません。殺人も同じです。たとえ道徳や法律が殺人は不幸だよと言っても、本人ではそれは大真面目に幸福を望んだ結果です。もちろん後になって人を殺さなければよかったと後悔することは大いにあり得ます。

これは極端なケースかも知れません。日常で考えられる幸福は例えば、試験に合格するや仕事で業績を上げるやあの子にモテたい、といったものがあります。それを支えるのに行動が必ず伴います。試験に合格するために勉強する、仕事で業績上げるためにどうするかを考える、モテるために積極的に話しかけるといったように無限に考えられます。なので物語の登場人物を理解する上でその人の行動は何を目的、何を幸福とした行動なのかを見極めなければなりません。ただ走るという行動が、例えば、学校に遅刻しそうになるから走るのと、陸上でベストタイムを出すために走るのと、ダイエットのために走るのとでは同じ走るのでもその意味が大いに変わってきます。

幸福ともう一つ重要になってくるのは登場人物と同じ動きを想像することです。この動きというのは物理的な動きのことです。
歩く。走る、殴る、飛ぶなどの日常的な動きと、さらに非現実的な動きも含めます。空を飛ぶ、みたいな感じの動きです。

ある本で面白い実験が書いてありました。体操選手にある装置をつけてお題として一つの体操の動きを体を動かさずに全身で想像してみるように指示します。そしてその選手の筋肉の動きを表す筋電図を見てみると実際にその体操をすることによって描く筋電図と相似形の図を描くことが分かったのです。

つまり身体のイメージにより実際の動きを再現できるということです。
例えば走っている人間がテレビに映っていたとします。それを視聴者は身体でその走るイメージをします。すると走っている筋肉とほとんど同じ筋肉を使っているということです。もちろん実際に走るほうが筋肉は大きく使います。ですが程度の差こそあれ、その動きを座ったまま追求できるのは注目すべきことだと思います。この時、動きという観点で登場人物と一つになっていると言えます。とはいってもこれを実感で感じるには時間がかかると思います。

ここまで書いてきたことをまとめます。
登場人物と一つになるには五感幸福動きをぴったり一致させることです。身体レベルでつながれば、もはや自分とは何なのかあいまいになってきます。これは決して神秘体験ではありません。普通に役者がやってることです。役者の仕事は「自分=登場人物」を作り上げることなのですから。

次回は僕のこれまでの体験と私とは何かという哲学の問題に踏み込んでいきたいと思います。

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