鬱ノ日、躁ノ日。
私の診断は、双極性障害Ⅱ型らしい。
双極性、いわゆる躁鬱と言っても、私の場合は鬱と軽躁らしく、どちらかと言うと鬱よりな症状らしい。
躁少なめ、鬱マシマシってやつだな。
と言っても、何年病気の症状が軽度化している実感はある。動ける日が増え、動けない日も減り、その波や度合いも全体的に軽くなってきている。
それでも調子の波というのはずっとあって、疲労や天気などにも左右される。今日は朝から疲れてぐったりしている。少し動かそうかな?と思っても、ちょっとした事で疲れ果ててしまう。そんな自分に嫌悪し飽きてしまった。ここ1ヶ月は、躁っぽかったのでフッ軽だった。本格的に気温も上がり始め、疲れが溜まっているのだと思う。一旦ひと休みだ。
自己嫌悪の塊だった頃に、なぜ自分を責めるのだろうと考えたことがあった。今思うと、その時間が自分にとって大きな財産だったのかと思う。
私の場合は、と言う前提だが、自分を責める=自分を守る事だった。他人に責められるのは辛い。だから、その前に自分で自分を責めるのである。そして、こんな自分なんて…と殻に閉じこもる事によってなんのメリットがあるのか?そう考えた。
自分はこんなにも繊細で、弱く、どうしようもない人間なんです。と自分に言い聞かせる事で、誰かに助けてもらおう、慰めてもらおうとしている自分が見えた。そう。そのメリットとは、自分は可哀想なんだ、という事をある種アピールする事で、誰かに助けてもらえるかもしれない。という事だった。いわゆる“悲劇のヒロイン”というやつだ。
当時の自分にとっては、それはかなり受け入れ難い事実だった。責任感が強く、綺麗な人間だと自分の事を思っていたのに、こんなに他力本願で、汚い人間なんだなと。
その一方で、なんとなく安堵している自分もいた。なんだ、誰かに守ってもらいたかったのね。と。
思い返してみると、何事も他人のせいにする傾向のある子供時代だったなぁと。まぁでも、人間そんなもんだよね〜。良いとこもありゃ悪いとこもある。それ自体に良し悪しなんてものはないし、人間らしくて良いじゃないかと思えた。
“人間臭い”という言葉が、私は好きだ。
こう思える様になるまで、色んな人たちに迷惑をかけてきた。ありがたい事に優しい人達ばかりだ。私が何度過ちを繰り返しても、笑って許してくれる人達しかいなかった。本当にありがたい。
そうやって、なんとかかんとか自分という波をノリこなせるように努力はしている。どうせ死ぬまで、こんなじゃじゃ馬な自分と付き合っていく事になるんだ。そこまでストイックになることはない。いい感じに“適当”に肩の力を抜いて生きていきたい。