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【短いおはなし】2月28日は「ビスケットの日」

ポケットに手を入れると、馴染みのない感触がして、同時に懐かしさも感じた。スマホと財布とあとレシートぐらいしかポケットに入れなくなって何年たったか。子供の頃はよくダンゴムシをポケットに入れていた記憶がある。丸まっているのであれはなかなかポケットに収まりが良かった。

さて、スマホを取り出そうとした右手が掴んだものは、ビニールの袋に入ったビスケットだった。なぜビスケットが入っているのかと不思議がる前にスマホがないことに焦った。かばんも探した、上着のポケットも探した。職場か自宅に置いてきただろうかとも思ったが、ついさっきまで使っていたんだから、それはないはず。どこかに落としただろうか。

こういうときは交番に行くものなのかと考えたが、近くの交番が分からない。スマホの地図アプリがないからだ。会社に電話をかけようにもスマホがないし、番号がわからないから公衆電話とかいう古臭い電話も使えない。そもそも使い方を知らない。
そんなことを考えている間も、僕のポケットの中にはビスケットがずーっと入っていて、ポケットに手を入れるたびにギザギザにとんがった先に指が当たっていた。

とにかく会社に戻ろうと、電車に乗る。運良く座席が空いていて座ることができた。つい癖でポケットの中からスマホを取り出そうとするが、そこにあるのはビスケット。取り出して改めて見てみると何の変哲もないただのビスケットだ。そのとき初めて僕はなぜポケットにビスケットが入っているのかを考えた。今までスマホが行方不明になったことだけを考えていたが、よく考えたら知らないものが勝手にポケットに入っているほうが不気味な気がしてきた。

じっとビスケットを見つめる。なにか食べるのは少し躊躇した。仕方ないのでそのまま元あったポケットにしまう。スマホがないとすることがないので、前の座席に座っている人たちを見ているけど、見ていないふりをしながら車窓の景色を眺めていた。

まず変だと思い、自分も周りに変だと思われるほど、周りの人達をよく見た。
みな手には小さなビスケットを握っていた。
ビスケットを片手で握り真剣な顔のビジネスマン。
ビスケットを両手で大事そうに持ち、時々笑顔の女子高生。
ビスケットを片手でいい加減に持ち笑いをこらえている大学生。
大人の手には明らかに小さなそれを持ち、小さなそこにはまるで何か我々人類を一生懸命に道化で楽しませ、笑わせ、時には悲しませ、前後不覚の酩酊状態にした後に、ゆっくりと時間をかけて大事なモノを失わせる具体的なそして効果的な何かがあるように思われた。しかしビスケットはただのビスケットで、表面は食欲をそそる少し焦げた茶色だ。

みなおかしくなってしまったか、自分がおかしくなってしまったか。どちらか検討がつかないまま、僕も自分のビスケットを出してみる。そこに答えがある気がしたから。しかし、取り出したビスケットは変わらず香ばしそうなバターの匂いを袋に充満させたビスケットで、変化があるとしたらポケットに入れていたことで、割れていたことだ。

降りる駅がきて、僕は静かに下車した。最後までビスケットを楽しそうに見つめる大人たちをじっと見ていた。なぜそれが可能だったか、答えは簡単。その大人たちは僕が見つめていても、ビスケットから一秒たりとも目を離していなかったから。

会社に到着してもビスケットのことが頭から離れず、スマホをなくしたことを忘れるほどだった。自分の席につきポケットに何かが当たる感触がして、手を入れて、思っていた感触とは違うものが当たった。ビスケットのビニールの袋のツルツルした感触ではなく、ギザギザの開ける部分の感触でもない、紛れもない金属の冷ややかな感触。

ゆっくりと取り出した僕の最近買ったばかりの新品のスマホは、なぜか画面が割れていた。

2月28日は「ビスケットの日」


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