思ひ出夜行 はまなす・ミッドナイト
いつもお読みいただき、ありがたうございます。鉄道(まがな道)、和歌(やまとうた)を愛する旅人、そしてミニマリストの玉川可奈子です。
最近、JINSでサウナ用のメガネを買ひました。アラレちゃんみたいなメガネですが、よく行く銭湯のマスターから似合ふと言はれました。
noteを始めて一周年
少し早いのですが、お陰様でnoteを始めて一周年になりました(昨年の五月二十五日開始)。
なほ、この日は、湊川で楠木正成公が討ち死にをされた日です。
当初はまつたくといつてよいほど、スキがつきませんでした。しかし、最近は、たくさんのスキをいただき、とても励みになつてゐます。
お読みいただいた方々の心の中が少しでも「ぬくぬく」になれば、幸甚です。
また、多くの出会ひや魂の結びつきもあり、こちらでも書かせていただいてをります。どうかご一読、お願ひします。
古へ人が愛した草木について論じてゐます。
最後の定期「急行」列車
今回の主役である急行はまなすは、青森駅と札幌駅を結ぶ夜行「急行」列車でした。青森駅から見て、津軽線、津軽海峡線、江差線、函館本線、室蘭本線、千歳線を経由して札幌駅までつないでゐました。その車両の一部は、現在も東武鉄道のSL大樹号で乗ることができますが(ドリームカー)、それに乗り夜更けの青函トンネルをくぐることはもうできません。
私は急行はまなすに、二度しか乗つたことがありません。快速海峡で、はまなすの車両が運用されてをり、それを含めると四度になりますが、そこは含めないことにします。二度しか乗つたことはありませんが、敢へて思ひ出を語ります。
急行はまなすは、青函トンネルが開通し、津軽海峡線ができたことによつて廃止された青函連絡船(深夜便)の代はりとして、昭和六十年三月十三日に運行を開始しました。同じ急行のきたぐにが廃止された後は、最後の定期運行を行う急行列車として知られてゐました。
列車名「はまなす」は、「知床旅情」に歌はれたはまなすと同じです。余談ですが、私は、「知床旅情」よりも元になつた「オホーツクの舟歌」の方が胸に迫ります。
森繁久彌が、全千島及び南樺太の返還を願つてゐたかはわかりませんが、
「父祖の地のクナシリに…」
や
「何日の日か詣でむ 御親の墓に ねむれ静かに」
といふ一節に、深い悲しみと憂ひを感じます。
なほ、私は「北方領土」の返還を望んでゐません。「全千島及び南樺太」の返還を望んでゐます。
平成二年頃には、秋田駅まで延長運転されたこともありました。秋田駅延長運転は平成八年まで続きました。
はまなすは、平成二十八年三月二十六日の北海道新幹線及び新函館北斗駅開業に伴ひ、廃止となりました。廃止日は三月二十一日の下り列車が最終運転となりました。
はまなすの思ひ出
はかなき恋と
三十歳手前二月。就職活動で札幌に来てゐました。とある私立の通信制高校の面接のために、遠く北海道まで来てゐた帰りにはまなすに乗りました。
札幌まで行くのに、寝台特急北斗星に乗りました。通算四度目、最後の北斗星でした。B寝台の中に籠り、悶々とした時間を過ごしてゐました。車窓を見る気にもならず、ただある人からのメールを待ち続けてゐました。
やがて面接も終はり、札幌駅に戻りました。
札幌駅は、遅い時間でも賑やかでした。しかし、どこか「暗い影」のある駅でした。もしかしたら、私の心の中を映し出してゐたのかも知れません。
当時、お付き合ひしてゐた人に、
「札幌で採用試験受けるんだけど…」
と伝へたら、
「可奈子が行きたいなら行けば良い」
と突き放されました。出版関係の仕事をする彼はとても忙しい時期にあり、私の相手をしてゐる余裕がなかつたのでせう。
しかし、私は彼に引き留めてほしかつた。
「行くな」
と言つて欲しかつた。けれど、その気持ちを伝へることは、嫌はれるのが怖くてできませんでした。さうした暗い心が、札幌駅の景色を暗いものに見せてゐたのかも知れません。
味の時計台で食べた味噌ラーメンも、それほど美味しく感じませんでした。面接も手応へはありませんでした。後日、不採用の通知が来ました。
もし、あの時引き留めてくれてゐたら、別れることもなかつた…と今でも思ひます。彼は今、とある雑誌の編集長。
「可奈子は、いづれうちの出版部で原稿を書いてくれて、一緒に活躍すると思ふ」
さういつてゐたことが思ひ出されます。そして、彼は二人の子の親。私とは違ふ世界に行つてしまひました。
二十二時前頃。札幌駅のホームに入線してきた24系客車。私の大好きな「ブルートレイン」です。この日の座席はのびのびカーペットカーでした。
はまなすのカーペットカーは、サンライズ出雲・瀬戸の設計の際に役立てたとか。写真を見てわかるやうに、面白い形をしてゐます。指定席料金で乗れるので、とても良いですね。床は硬いのですが、心身の疲れのせいで札幌駅を出発したらすぐに寝てしまひました。
翌朝、蟹田駅を通過したあたりで目を覚ましました。青森駅で降り、特急白鳥に乗り換へ、さらに八戸駅ではやてに乗り上野駅に帰りました。
自由席の旅
二度目の乗車は、ある年の冬に北海道&東日本パスで東北と北海道を旅行した時でした。この北海道&東日本パスは、当時、はまなすの自由席に乗ることができる優れものでした(新札幌駅で降りて、厚別駅まで歩いて移動する厚別ダッシュといふ技もありますが、私はやつたことがないので割愛します)。
早めに青森駅に着いた私は、ホームにカバンを置き、待合室でずつと本を読んでゐました。
前日に上野駅を出発し、東北本線と奥羽本線を乗り継いで秋田駅近くのドーミーインに泊まりました。その翌日、つまりはまなすに乗る当日は、五能線(リゾートしらかみ)に乗り不老ふ死温泉にも行きました。
雪が舞ふ青森駅のホーム。それなりの混雑を予想してゐましたが、思ひの外、空いてゐました。列車が入線するころには、数名の自由席を求める人が並んでゐましたが、二十人もゐませんでした。
我先にと乗り込み、(卑怯にも)古ぼけたリクライニングシートを対面にしてボックス席にし、足を伸ばして横になりました。
外は真暗なので、もちろん車窓は見えません。いつ青函トンネルを潜つたのか、そして、いつ北海道に上陸したのかもわからないうちに列車は函館駅に到着しました。私は夢の中でしたが、長万部駅のあたりで目を覚ましました。長万部は「おしやまんべ」と読みますが、「おしや↑まんべ↑」ではなく「おしや↑まんべ↓」と発音するのが正しいと北海道出身の先輩に教はりました。暗闇の小幌駅を見ることなく、眠りに着きました。
さういへば、この旅行の時に、ラダ・ビノード・パルの『パル判決書』(講談社学術文庫)を読んでゐました。何故か、このことだけは鮮明に覚えてゐます。
ミッドナイトの旅
大学四年生の夏、快速ミッドナイト号に乗るため、北海道を目指しました。青春18きつぷを片手に、夜の新宿駅からムーンライトえちごに乗りました。
新潟駅から今はなききらきらうえつに乗り、あつみ温泉に行きました。街の中の小さな公衆浴場は、とても熱く、短い時間の入浴でもものすごい汗が出ました。
深夜の大館駅で朝まで過ごし、青森駅から快速海峡に乗りました。車内では完全に寝てしまひました。そして、函館本線(山線)をひたすら乗り通し、札幌駅に着きました。
札幌駅のホームで発車を待つキハ183系。早稲田大に通ふ鉄ヲタから、間もなく廃止になる旨を聞いてゐたのもあり、感慨深いものがありました。車両の先頭であつた為か、出入りする客が行つたり来たりして煩はしく感じられましたが、すぐに寝てしまひ、起きたら函館駅でした。
ミッドナイトは昭和六十三年七月一日から運行を開始しました(当時は臨時列車)。区間は、札幌駅から函館駅間で、経由ははまなすの函館駅までと同じです。夜行バスへの対抗で設置されたと聞きました。
平成十四年十二月一日、その使命を終へ廃止になりました。カーペットカー等を連結してゐる時期もありました。
夜行列車の廃止は、不思議とその終着駅が遠くに行つたやうに錯覚します。ミッドナイトの廃止は、札幌が。ムーンライトえちごの廃止は、新潟が。それぞれ、どこか遠くに行つたやうな。それぞれの街が遠くなつたやうに感じられるのです。ただ、新幹線に乗るとさうでもないのですが。
SL大樹での再会
現在、東武鉄道がSL大樹号を運行させてゐます。これは画期的なことでせう。その大樹に乗りに行つた時、大樹の車両が、ムーンライト高知だつたり、はまなすだつたり、思ひ出深い車両によつて編成されてゐるのを知り、感慨深いものがありました。見方によつては「チンドコ編成」ですが…。
大樹には二回乗りました。一度目は、ムーンライト高知の席。二度目は、はまなすで使つてゐたドリームカー(オハ14 505)でした。
ドリームカーは、とても乗り心地が良くてオススメです。
終はりに〜はかなき恋の後日談
はまなすに乗り、東京に帰り、数日後。
彼と別れました。
そして、また春がきて。
その彼のことを忘れられず、約八年間引きづりました。彼を思つて聴いてゐたのが、倉木麻衣さんの「Time after time〜花舞う街で」です(私の先生も同じやうな経験をしたさうです)。
歌詞が、私自身の体験と重なります。
「緩やかな風吹く街で そつと手を繋ぎ 歩いた坂道」
は九段下のあの坂。さう、靖国神社へ続くあの坂です。
「蘇る 思い出の歌」
は私が彼を思つて聴いてゐた椎名林檎の「同じ夜」。彼は、私を思つて郷ひろみの「言えないよ」や中島美嘉の「流れ星」を聴いてゐたさうです。
「今も忘れない約束」
は彼からの言葉。
「可奈子さんとこれから一緒に生きて行けたら、人生楽しいだらうなつて思つた。この意味わかる?」といふ言葉。
「風舞う花びら」
が舞うところは、さくらのやうにうるはしいあの人と、初めて出会つた場所。さう、靖国神社です。「いつかまたこの場所で 巡り逢おう 薄紅色の季節来る日に笑顔で」といつも願つてゐました。
彼は、「傷付きやすい人」、HSPな人でした。
もう、過去のことですが、桜の時期が来ると、今でもふと思ひ出します。桜咲く靖国神社。
今年の英霊が帰り、桜と咲く時期はもう過ぎてしまひましたが、今年も美しく咲いてゐました。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。