誰かにとって大切な存在であり続けたい
今思えば22歳で長男を出産してから昨年三男が就職するまでの31年間が私の人生で1番私が輝いていた時期だと思う。
ホント、今思えばなんだけどね。
当時はただただ毎日忙殺されて自分が輝いていたなんて考える暇もなかった。
会社の有休はすべて子供の行事か通院か、たまに自分の体調不良で消化。
毎日日付が変わるまで家事に追われて睡眠時間も慢性的に不足。
だけど、子供かわいさの一心でがむしゃらに進んでいたんだよな。
人間、誰かに必要とされているときが1番輝いている。
つまり、誰からも必要とされなくなった時点で価値がなくなってしまうってこと。
今まさに自分はココ。
子供たちから精神的にも経済的にも必要とされなくなった今、自分の生きる価値が見出だせなくなっている。
毎日が死ぬ日までの惰性でしかなく、誰の役にも立てなくなった以上、今後はとにかく足手まといにだけはなるまい、疎ましい存在にだけは決してなるまいと思うのだ。
よく夫に「今から先、生きていても何の楽しみもないし、喜びもある気がしない。待っているのは老親の介護と自らの老い。子供たちに疎ましく思われないうちにあの世に行った方が楽。」と言うもんだから、ものすごく露骨に嫌な顔をされる。
最初からパートナーがいなかったり、子供もいない人はある程度若い頃から徐々に老後(死)に向かっての心構えが備わっていくのではないか。最初から無いものは当てにしようもないのだから。
でも子供やパートナーがいる場合、どうしても頼りたいという甘えが出てしまう。
今は自分たちの老後に子供をあてにする時代ではない。それはわかっているが、親子だから配偶者だからと、理屈では割りきれない思いもある。
だけど、50代の私たちは1番割りを食う世代で、自分は時代の流れで子供たちに頼れないが、親は看ないといけない、狭間の世代なのだ。
もしも、老親が時代に敏感で精神的に自立しているようであればラッキーであるが、うちの義母は昭和一桁生まれのバリバリ昔気質。子供は親を看て当たり前、嫁は義親を看て当たり前という私にとって非常に不運な状況にある。
つまり私は自分自身の老後のことは子供たちに頼れないが、私は義母の老後を最期まで面倒みないといけないということ。
私も還暦を控え、自分の最期の日までカウントダウンの毎日だが、そこに義母の介護や看取りが並行し、純粋に自分のことだけに注力できる日数は、私に残された時間から義母に残された時間を差し引いた分しかない。しかも、持病もある私は義母の死後に元気でいられる自信も保証もない。
そんなお先真っ暗な状況で、今から先を生きていこうという前向きな気持ちになんて到底なれない。
毎晩眠りにつくときに、このまま目が覚めなければいいのにと思う。
少なくとも、今逝けばまだ子供たちにも泣いてはもらえるだろう。
昔気質で他力本願でワガママな義母にも、また、そんな義母優先の夫にもひと泡吹かせてやることもできる。
私が最も恐れているのは、私の死を待たれること、死んでも何も思われないこと。
自分という存在がまだ誰かの頭の中で「大切」のカテゴリーにあるうちに逝きたい。
ネガティブなことばかり書き連ねたが、ただ私は生きることに希望や幸福を見出だせないだけで、決して自殺願望者であるわけではない。自ら死ぬほどの勇気も根性もない。
だから私は今日も目が覚めたらいつものように朝御飯を食べて身支度をして出勤し、夜には帰宅してまた就寝する。無意味な毎日が今日も繰り返されていく。
私の自由時間は一日一日減り続けている。
残りあと何日かわからないからまだ落ち着いていられるんだろうな。
誰かの大切な存在でいられることは自分の生きる活力でもあるし、その「誰か」が自分にとっても大切な存在であるなら、それにこしたことはない。
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