「おまえに口がきけたなら」
なん、と声が聞こえた気がした。
布団の中で、ぼくはその声を聞く。ぼくだけの世界、その外から聞こえたはずなのに、くぐもっていない、声。
だからそれは嘘だと分かった。
偽物だと分かった。
硬く閉じていた瞼の内側が、また熱くなる。
止めていたはずの呼吸が、胸で詰まる。
どうしようもなくなって、溢れ出す。
もうあの子はいないのに、ぼくは苦しめ続けただけなのに。
それなのに。
なぁん、とまた声がした。
ぼくは身勝手にも腹を立てる。自分自身に嫌気がさす。
きっとドアの軋みを、窓枠の擦れを、あの子の声だと思い込む、ぼくの頭にイライラする。
布団を剥いで、身を起こす。いつのまにか朝だった。
舞い上がる埃が、嫌味のようにキラキラ光っている。
優しい日差しに照らされて、あの子はいた。
猫。
見覚えのある猫。
もういないはずの、あの子。
その子は、まるで何もなかったかのようにぼくのベッドに飛び上がると、当たり前みたいにぼくの膝の上に乗ってくる。
重みはない。だから不思議な感じだ。
何もない重みを、思い出から勝手に感じている。
その子はじっと窓の外を、澄ましたように座って眺める。
撫でて欲しそうに見えないけれど、これで撫でて欲しがっているのだ。
手を伸ばす。頭に触れる。何も感じない。ふわふわした手触りも、暖かさも、感じない。でもそこにある。
頭の形に沿って手を滑らせてしまうのは、その手が空を切ったら、この夢が終わってしまいそうだから。
撫でる、ふり。それだけなのに、その子は気持ちよさそうに手に体を寄せていく。
次第に体は倒れていき、最後にはぼくの膝で仰向けになって、腹を見せる。
だからと言って、腹を撫でてやると、この子は怒るのだ。
あまりにも、いつもの光景が。ある日から絶たれてしまった“いつもの”が、なぜまた続いているのか。
疑問を意識的に頭の隅に追いやる。
気づいて仕舞えば、手は空を切る。
その子は満足したように立ち上がり、伸びをする。
ぼくの方をじっと見る。
わかっているよ。とぼくは捨てずに残しておいたおもちゃを――。
「おくちいたい」
※
あの子は死んだ。
雨の日、仕事の帰りに聞こえた小さな鳴き声。
無視してもよかった。その日の仕事は最悪だった。疲れていた。他の誰かが気にするだろう。例えばぼくの後ろの人とか。あるいは雨宿りをしているあの子とか。それとも鞄で頭を庇いながらこちらに走るあの人とか。
あの日から、五年間。
ぼくはあの子を家に入れ、育ててきた。
狭い家。
広い世界から、あの子をこのワンルームに閉じ込めていた。
いろんなものを用意した。
テレビを売ってそのスペースにタワーを建てた。
本棚の本を段ボールに詰め、その位置には給餌機と給水機を置いた。
押入れの扉は開け放し、トイレを置いた。
それでも、あの子の世界は狭いままだった。
ぼくはそれがどうしても不憫で、頭の中のエゴの二文字が消えることはなかった。
もっといい家にやることだってできた。そうしなかったのはぼくのエゴだ。
「おまえに口がきけたなら」
ぼくは寝る前に、枕元で丸まるあの子に何度か語りかけた。
おまえに口がきけたなら。きっとぼくは恨まれ口を聞くのだろう。
おまえに口がきけたなら。きっと望むものをやれただろう。
おまえに口がきけたなら……。
※
「おくちいたい」
目の前のその子は、鳴き声と全く同じ音で、人の言葉を吐いた。
その子は、口をきいた。
ああ、そうか。
これはぼくへの罰なのだ。
あの子の痛みに最後まで気づけなかった、ぼくへの罰。
何度病院に行っても、悪くなるばかりの数値をみていても、幾つもの薬を餌に混ぜても、気づいてやれなかった、ぼくの罰。
結局ぼくは、きみを苦しめるだけだった。
ぼくがあの日、きみを拾いさえしなければ、きみはもっと幸せに生きれたはずだ。
それなのに、それなのにぼくは。
「おくちいたい。おくちいたい。おくちいたい」
その子は歌うように言い続ける。
代わりにぼくの口から垂れるのは、懺悔の言葉。
ごめん。
それだけを。
その間にも、その子は自らの痛みを訴え続ける。
機嫌の良い時の声で。甘える時の声で。
ぼくは、ぼくは……。
また、同じことを繰り返した。
「おまえに口が、きけたなら――」
――あ。
言って、思い出す。
これを言ったのは、寝る前……枕元に丸まるあの子に向けて……だけでは、なかった。
記憶の奥に押しやっていた、あの日、あの子が苦しむこの部屋で。
ぼくは同じことを言ったのだ。
「おまえに口がきけたなら、きっとおまえの痛みにすぐに気づけたろう。気づけたのに。気づいて、やれたのに」
ぼくはどうにもならないことを、あの日、もう目覚めないあの子のそばで何度もつぶやいたのだ。
だから、なのか?
おまえは、あの時のぼくの言葉を、聞いていたのか?
懺悔の言葉を止める。
それは、もしかしたら最初から必要なかったのかもしれなかった。
「おまえ、ぼくが知りたかったことを教えにきてくれたのか? 知ったら、喜ぶと思って?」
その子は、ある夏、ベランダから蝉を捕まえてきた時と同じ、得意げな顔をして、なん、と鳴いた。もう口は、痛くなさそうだ。
だから、やっぱり、懺悔の言葉は必要なかったのだ。
「ありがとう」
最後にその子を撫でようとして。
ぼくの手は、空を切った。
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