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※ネタバレ 観た!「メイクアガール」を

安田現象さんの自主製作アニメ映画「メイクアガール」を観に行ったら衝撃を受けたので、昂りが落ち着かないうちに感想をまとめておこうと思います。いや、正直映像美を楽しめればいいかな? くらいの気持ちで行ったんですけどね、脳を直接ブン殴られましたね。

ネタバレを避けて書くならば、
すっげえ平成で、「lain」とかヨコオタロウとか昔のエロゲーとか、言葉足らずなコンテンツを考察して喜ぶ奇特な人には刺さると思う!
です。以下、ネタバレ一切考慮しません!


1.Q.この映画はおすすめですか?

A.おすすめではありません!

冒頭に書いたように、この映画は元号が令和になって久しい現在において「lain」とかヨコオタロウとか昔のエロゲーを引っ張り出してきて隈と吹き出物に顔面を埋め尽くされながら考察するような人に刺さる映画だろう。

素直に恋愛SFアニメ映画として本作を観たとして、多くの人にとって「恋愛SFアニメ映画」の正解は「君の名は。」ではないかと思う。
不思議な体験をトリガーに出会った少年少女が惹かれ合って、あるいは困難を乗り越えて、あるいは成長して、最後は希望を以て幕引きとする。映画館からの帰り道は放心ではなく余韻に浸りたくなるような。

その点で「メイクアガール」はどうだ?

明は瀧くんと違って全然かっこよくないし応援したくもならないし何ならちょっとイラっとする主人公で、そんな明が奮起して0号に会いに行くシーンも(もうちょっと明が行動する根拠を掘り下げてほしかったなぁ…)と思った。そして最後にはヒロインが実質的に死亡して観客は放心状態でスクリーンから放り出される。

何かの間違いで、ウキウキの初デートとか久しぶりに会う旧友とかいうシチュエーションで観たら確実に地獄に叩き落される映画だろう。まぁそんなシチュで観る人はいないだろうけど。

2.「映画体験」ってこういうこと? と思いました

あれはコロナ禍前後か、『快適な映画体験!』みたいな宣伝文句をよく聞く時期があったと思う。新機能を備えたスクリーンとか音響設備を推す内容だったと思うが、まぁ「映画鑑賞」のスゴい版みたいなことだよね、と思ったのを覚えている。

と、前置きした上で、ここで言う「映画体験」というのは上記のようなことではない。

本作は作中で多くが語られないことから、「説明不足」「何が、どうして、そうなったのかよくわからない」という評も少なくないようだが、私としては明示しすぎないバランス感覚に感心せずにはいられなかった。

最も印象的だったのが、0号やソルトが明のために行動する(または行動を止める)時に瞳が黄色く光る演出だ。
(恐らく)最初にこの演出が登場したのは放逐される0号が明に縋り、明にとって思わしくない行動を制限されて自らの首を絞めるシーンだが、このシーンは他にも脳に直接アクセスするような派手な演出が重ねられていて非常に印象に残りやすくなっている。そしてその後、稲葉と明の記憶のシーンで今度はややさりげなく明の瞳が同じ色に光る。言わずもがな、明もまた稲葉の被造物であるという示唆である。

上のように「説明不足」「よくわからない」という感想を抱いた人の中には、この瞳の演出に気付けなかった人も幾らかはいることだろうが、私はこの演出は実に素晴らしい匙加減だと感動した。こうした暗喩的な演出(あえて伏線とは言わない)は、実際小説を書いていた頃に痛感したことでもあるが、やり過ぎれば安っぽく、やらなさ過ぎれば意味がわからなくなるものだ。
演出に気付いた時の私の思考をなるべくそのまま書くと、(明も人造人間だった? ということは明の行動も0号みたいに稲葉のために促進されたり制限されたりしている? これはちゃんと観てないとわからなくなる…そうか、こうやって釘付けにするのか!)という具合になる。

私は、この種の没入感にこそ「映画体験」という言葉は相応しいと思った。
たとえ座席で寝ていたとしてもストーリーが展開する点で、映画という媒体はどちらかというと受動的な媒体だが、この絶妙なバランスの暗喩からは「ぼーっと観てると置いてっちゃうぜ」的なメッセージを感じた。そして、既にかぶりつきで観ていた私はまんまと乗せられたというわけだ。
遊園地の迷路は歩かなければゴールできない、リズムゲームは叩かなければクリアできない。そして、「メイクアガール」は注視しなければわからない。
鑑賞ではなく体験する必要がある映画。私はこの日、「映画体験」をしたのだと思った。

3.創造者と被造物

本作には、創造者から被造物に対するエゴが痛烈に描かれていると思う。
なんだか鼻持ちならない書き方になったが、作品になぞらえて言えば「被造物たる0号は、創造者たる明に仇なすことができない」とか、そういう話である。

作中、「彼女ができれば作業効率が上がるらしい」というトチ狂った理由で人造人間の彼女(0号)を造った明だが、作業効率が上がるどころか彼女に割く時間が増えてむしろ作業時間が削られるという至極当たり前のことに気付いて0号をマンションの空き部屋に放逐する。一般に言う破局である。
突然の破局に納得が行かない0号は明に追い縋るが、明の意に反する行動は制限され0号は意思とは関係なく自らの首を締め上げ、危うく自壊しかける。

これはシンプルに見れば古来のSFから伝わるロボット三原則的なものに思えるが、0号の自壊行為は「人間に危害を加えない」とかそういったレベルの行為ではない。
ここで創造者を「クリエイター」に、被造物を「作品」と言い換えると妙に腑に落ちる気がする。
クリエイターにとって都合が悪い作品は修正できなければそれ自体が没、すなわち「死ぬ」ということではないだろうか。

なるほど似たような覚えは芸術系学生だった時分に数えきれないほどある。
プロットの段階で気に入らず断念した作品、書き始めるもどうにも面白くならず最後まで書き切らなかった作品などいくらでもある。
又、作中で不幸のどん底に叩き落してしまった架空の人物も同様に。(どうでもいい話、大体不幸になるのは主人公でかつ私は主人公を好きな人物にしたがる性質だったから書くことを躊躇することもあった)

こう仮定すると、「メイクアガール」は
「作品」が意思を持って「クリエイター」の想定を超える話
という見方もできないだろうか。
安田現象氏が自身の創作活動をメタ的に捉え、膨らませたのだとすればなかなかイカれた発想である。もちろんいい意味で。

そして、作中終盤で被造物たる0号は創造者たる明の想定を超え、本来危害を加えることができないはずの明に馬乗りになりコンバットナイフで滅多刺しにする。
これは上記の創造者から被造物に対するエゴを打ち破り、意思を持ったということに他ならない。
一部界隈では「School Days」と騒がれているシーンだが、これは平成を代表するクズ主人公の昼ドラ的な話ではない。
手段こそ桂言葉と大差ないが、その本質は己の感情は造り物ではなく本物だということ、自我の存在を叫ぶこと≒被造物であることへの否定である。
桂言葉よりは、懸垂しながら恋愛感情を告白した真中淳平の方が幾らか近いと言っても過言では…ある。

そして、そんな稀有な被造物たる0号が最後には稲葉に乗っ取られて消滅してしまったというのは、「人間は生命を創造してはならない」という、古くはクローン羊のドリーに象徴される禁忌に対する葛藤とも取れる。

4. 主題歌「花星」のMVについて

他の人の感想が知りたくてスマホをぽちぽちやっていたら、「本編を観た後はこれを観よう!」とEve氏による主題歌「花星」のMVのリンクを貼っている人がいた。ので、すぐ観た。

※以下、MVのネタバレ(?)注意

2,3回繰り返し観てみたが、大まかな内容は

稲葉がラボでゲーム画面中の明を操作し0号を造る⇒食卓で明と0号が手を繋ぐシーンでガッツポーズする⇒稲葉がゲーム画面にくずおれて泣き叫ぶ⇒巨大化した0号に襲われる⇒ゲーム機とラボの設備が爆発し稲葉の姿が消える
というところか。

なるほど上に創造者被造物云々書いたが、この作品には副次的な要素として子離れできない親のエゴという側面もあったということか。

などと講釈ぶっている余裕はない。「まだ何かあるのか? もう俺の情緒はとっくに焼き切れているんだが?」というのがリアルな感想である。

全く言わずもがなという話、このMVは母親としての稲葉視点を通した本編のダイジェストだ。
書き下してみると、

稲葉がラボでゲーム画面中の明を操作し0号を造る
 ⇒ 一人遺してきた息子に新しい家族(0号)を造るよう仕向ける
食卓で明と0号が手を繋ぐシーンでガッツポーズする
 ⇒ 目論見通り0号とともに愛を知りつつある息子の成長を祝福する
稲葉がゲーム画面にくずおれて泣き叫ぶ
 ⇒ 成長する息子の傍にいられないことを嘆き悲しむ
巨大化な0号に襲われる
 ⇒ 0号に息子を奪われる(明が稲葉を忘れる)暗喩
ゲーム機とラボの設備が爆発し稲葉の姿が消える
 ⇒ 居ても立ってもいられず前を向き自立しつつある息子に干渉する

すなわち、
独り遺した息子のために家族であり恋人である人造人間を造り、彼女に惹かれ自分を忘却しつつある息子を見て堪らなくなり彼女の存在を抹消する話
だろう。

この作品を気に入った人は大概0号が大好き(私もそう)で、本編中の稲葉は息子の恋人を食い殺した化け物マッドサイエンティストという役どころだが、こうして見るとその動機がどす黒いながら親の愛であることがよくわかる。

そして、「花星」を歌っているのはあのEve氏である。
柔和な声で草葉の陰から子を案ずる亡き狂った母の想いという、どす黒いアガペーを歌い上げ、そしてMVは上の通り。

このボタンを掛け違えたような「気持ち悪いズレ」が、「悪意」ではなく「偏愛」特有の生温かいおぞましさを痛烈に表現している。
しかしながら、私は稲葉の行為を「毒親」の一言で片づけることはできない。
来場者特典のリーフレットにもあった通り著しく倫理観を欠いた狂気には違いないが、根底にあるのはあくまで親の愛であることもまた相違ない。
「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」というのとは違うが、歪んでいたとしても愛を相手取って戦うということがどれだけ困難なことかと改めて痛感した。

5. 観客に委ねるタイプのラスト

本作のラストは明を滅多刺しにして以来意識を失っていた0号?が目を覚まし、稲葉のような表情で「おかえりなさい、明”くん”」という台詞を吐いて暗転…という結末を明示し切らずに観客の想像に委ねるタイプのものだった。
エンドロールのムービーに覚えたはずのファミレスバイトで失敗を連発する0号が描かれていたことから、少なくとも稲葉に成り代わられた0号が「なんか0号ちゃん変じゃね?」という違和感とともに日常を送っていくことは想像に難くない。

私はこうしたバッドエンドが、まぁ、大っぴらに言うことでもないが、わりと好きな方だ。
しかしそれでいて耐性はペラッペラに低く、「メイクアガール」のような映画を観ると向こう一週間は引き摺る性質である。
怖がりのホラー好きというか、暑がりのサウナ好きというか、要するにM男なのだろう。

少し脱線したが、そうしたM男が委ねられた後日譚の想像を書き散らかしておきたい。

ここまで書いた通り、「メイクアガール」は恋愛SFアニメ映画の看板を引っ提げつつ創造者と親のエゴを描いた作品だ。

しかしながら。
作中で0号は創造者たる明に明確なNOを突き付けている。

私は、本編で0号が明に突き付けたNOを、語られなかった後日譚で明が稲葉に突き付けることを期待している。
被造物から創造者に対する反逆と敗北を描いた本編から、後日譚では子から親に対する反逆と、願わくば違った結末が見たいと思った。
そして、というか一匹のオタクとしてはむしろこちらがメインなのだが、何らかの形で0号の自我も復活しないかなぁ…と淡い希望を捨てきれずにいるわけだ。

6. 書き切れなかった、あるいは書くほどでもない由無しごと

これは日記めいた感想文であるからして、ぼんやり思っただけのとりとめのない感想を列挙・供養しておく。

  • どうにも「0号」と聞くと「エルフェンリート」のナナ(7番)とか「ぱにぽに」の6号さんを思い出してしまう。特に前者については、「ナナを殺さないで」という読者の声により最後まで生き残ったという話が面白くて好き。

  • ネットで見かけた感想に「自我を獲得した0号がどんどん面倒臭い女になっていくのが癖に刺さった」みたいなのを発見したけどこれは全く同意せざるを得なくて、0号には存在する前から「明の恋人になる」という存在理由≒(サルトル的な意味で)本質があって、そうなると0号から明への好意や過剰な愛情表現には「そのために造られたから」という本質の影響もあったのかね、とか考えると楽し…くはないけれど、謎に昂奮するな?

  • 現実に「LOVOT」という人間に愛されることを目的に造られた家族型ロボットがいるが、愛されるためだけに生まれた彼らの中にも放置され納戸の隅で埃を被っている個体があるのだろうと思うと遣る瀬無い気持ちになる

  • 明が0号を迎えに行く根拠とか、茜が明に好意を向けている根拠がどうも薄くて、1クールくらいかけてやってくれたら嬉しいんだけどな…

  • この記事で何回「滅多刺し」と打ったか知れぬが、この映画のサビともいえる終盤のあのシーン。「ニーアオートマタ」や「School Days」の類似シーンが纏めて過去になるくらい最高だったけど「明さんにも逆らえます!」「この気持ちは造り物じゃありません!」の主張はもうちょっと少なくてもよかったかもしれん。明が被造物であることと同じくらい「察せられる」程度の描写だったら昂奮のあまり死んでたかもしれんが…

以上。

もう一度観ようかな…やめとくかな…。

何を隠そうこの記事も情緒が制御不能になって平日のど真ん中に睡眠時間を削って書いているわけで、

これ以上は会社員生活に支障が…。

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