「嫌われる勇気」オンライン読書会〜水先案内人のつれづれ〜
オンライン読書会とは
勇気のアクセラレーター金井津美です。
私は現在、アドラー心理学を一躍有名にしたあの名作、「嫌われる勇気」のオンライン読書会を主宰しています。
「オンライン読書会」って何?と思われる方のために、ちょっとだけご説明を。
「オンライン読書会」とは、その名の通り、参加者がそれぞれ決められた章を読んできて、週に1回オンライン上で集まり、その章についての自分の意見を述べてもらったり、私から解説を加えさせて頂きながら、より本の内容を深く味わうための読書会です。
参加するためにお願いしていることはたったの2つです。
①該当する章を読んでくること
②任意ですが予習フォームをご用意しているので、ご自身の意見を書いてきてもらうこと
これだけです。
参加の仕方も、積極的に意見を言うのもありですし、他の参加者の方がどう感じたのかを聞くだけでもありです。
読書はもともと一人でするものかもしれません。
ですが、同じ本を皆で読むことで、自分とは違った意見が聞けたり、より深い理解を発見することもあります。
今日から、その読書会にご参加頂いた皆様からの「気づき」や質問、そして私からの回答や盛り上がった話などをつれづれに書いていこうと思います。
もちろん、個人の特定は致しませんのでご安心ください。
小石とタライと矢とヘドロ・・・
初めに言っておきましょう。
読書会を始めて気が付いたこと、それは…
こんなにも読書会に適したアドラー心理学関連の本が、かつてあっただろうか!?
ということです。
ストーリーの展開の面白さはもちろんのこと、そんな面白いなどと凡庸な言葉では表せない本なのです。
いちいちつまづく「小石」の多さ、天井からガツンと落ちてくる「タライ」のしかけ、ズキューンと胸を刺してくる「矢」の鋭さ、自分の奥底にたまっていた「ヘドロ」が波立つ気持ち悪さ、まぁ、これでもかっ?というくらいスペクタクルに富んだ読書の旅が体験できるのです。
嫌がおうにも自分の内面と向き合わずにはいられない状態に巻き込まれていきます。
え?そんなの嫌だよというアナタ、でも大丈夫です。
最後にはちゃんと心に陽がさしてくるエンディングが待っていますから。
一人で読むと何気なく通り過ぎてしまう景色も、仲間と旅することでそれがいきなり驚きの光景に変わる、そんな予想外の展開が旅の途中でたくさん起こっています。
トラウマは存在しない ←えっ?マジで?
さて、今回はこの本の第一章(本では第一夜と記されている)のタイトルにもなっている「トラウマは存在しない」ということについて。
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>>p.20 哲人 アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。
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この一文は衝撃的ですね。私も最初に読んだときは驚いたものです。
ホントに??と。
読書会の参加者の反応も様々ですが、受け入れがたい人も多い箇所です。
まず、アドラー心理学実践家として言っておきたいこと、それは
アドラー心理学では
「トラウマを明確に否定します」
ということを否定します、ということ。
アドラー本人やその高弟(←偉いお弟子さんたち)の過去の文献、現代のアドラー心理学研究者たちのどの文献を見ても、このようなことを言っている人はいません。
そして何より、著者の岸見一郎先生も2017年に出版された著書の中でこの「トラウマの否定」をやんわりと否定されています。
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>>アドラーが否定したのはトラウマの存在ではなく、トラウマによって支配されることです。
参考文献:『アドラーをじっくり読む』 岸見一郎著 中公新書ラクレより
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「はぁ?じゃあ、何なんだよ!嘘言ってるじゃないか?」
と怒らないでくださいね。
この本はフィクションであり、ストーリーとして面白く読むための本だと思っています。決してアドラー心理学の教科書、もしくは心理学の専門書という位置づけで読まないほうが良いと思います。
第一、心理学にそんなに関心のない方々はお勉強本よりも面白く読める本のほうが手に取りやすいですよね。
今まであまり一般の方々が読みやすいアドラー心理学の本がなかったところに、この本が届けられた。
その画期的な事実を私は素直に素晴らしいことだと感じています。
改めて、トラウマの話。
はい、話がそれました。ごめんなさい。
トラウマがあるかどうか?という話であれば、それはきっとあるのでしょう。現に、今もPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんでいる方々は存在しますし、医療や心理療法の分野ではそのトラウマ治療に日々邁進している専門家も大勢いらっしゃいます。
だから、現実の世界で専門家でもない立場で「トラウマは存在しない」なんて言うこと自体ナンセンスでしょう。
この部分は、言葉尻を捉えて批判するのではなく、本の続きを丁寧に読み解いてその真意を理解する必要があります。
トラウマが存在するか否かという話ではなく、
アドラー心理学の立場では
「あなたがトラウマだと決めるならそれはトラウマとなりうるし、トラウマであることを手放せばトラウマにならないだろう」
ということなんです。
本の中にはこうあります。
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>>p.29 われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
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つまり私たち人間は自分の思考・感情・行動を、過去に起こった出来事(経験)そのものによって決めているのではなくて、その出来事(経験)に付加した自分なりの意味づけによって決めている、しかも自分なりの目的や意図にかなうかたちで、ということです。
アドラー心理学ではこういう考え方を「認知論」や「自己決定性・創造的自己」そして「目的論」という理論で説明しています。
人それぞれの「意味づけ」
この意味づけとは、その人の信念や価値観にもとづくきわめて個人的なものなので、人によって千差万別です。
同じ物事でもAさんとBさんでは意味づけが異なるので、それに対するイメージの良し悪しや好き嫌いが分かれるというのはよくあることですよね。
例えば、私は数字に関する話が苦手です。
統計や分析などはもちろん、お金に関する数字の話も苦手なのです。
中学生の頃から数学が苦手で計算も遅く、テストは苦痛以外の何物でもありませんでした。
そして運の悪いことに数学の先生とも相性が悪く、数学の時間に後ろの友達としゃべっていたところをいきなり拳で殴られた経験があります。
その時から「ああ自分は数学が本当に嫌いだ」という意味づけを強固にしてしまったのでしょう。
その意味づけとともに、大人になった今でもそのシーンを思い出し数学的なことは自分に合わないものだというマイナスなイメージを持ち続けていることを自覚しています。
冷静に事実をとらえると、数学そのもの、そして先生も悪かったわけではありません(時は昭和でした)。
何が悪かったのかというと、それは私が個人的に意味づけした数学へのイメージが悪かっただけなのです。
まさに数学にまつわる経験に自分自身が与えた意味によって、数学というものに対する自分の態度決定をしている、ということなんですね。
そう、もっと厳しく言うと「苦手なことからは逃げたい」「できない自分を認めたくない」という自分なりの目的や意図にかなうかたちで、「私は数学が嫌い」という態度をとり続けていたんです。
でも、かたや幼いころから算数や数学が大好きで生きてきた人もいるし、数学的な才能で大活躍している人だって世の中にはたくさんいますね。
この人たちの数学に対するイメージは、私とはまったく異なったものであることは間違いありません。
ううう、なんだか書いてるうちに昔を思い出し少し辛くなってきた・・・
これってトラウマ?(笑)
そう、数学をトラウマにしていたのは自分自身でした。
だからこれを自分の意思で克服する努力が必要だったのです。
今は数字的なことはどうしてるのかって??
もちろん、今は大人ですので「私は数学的なことが不得意なのでここのところお願いします」と、自分の不得手を自分で認め周囲の助っ人に頭を下げるという行動を起こしています!
PCの中にいるエクセル大先生、そしてお世話になっている税理士や事務局さんには本当に感謝しています。
過去の出来事が頭を離れず現在もつらい、それは自分の意味づけの点検をしてみるといいかもしれません。
出来事そのものが悪いのではなく、自分の意味づけが不具合を起こしているに過ぎない、そんなことはよくあることなんですよね。
この『嫌われる勇気』という本、ほんとに自分と向き合う良い時間を作ってくれます。
次回からも読書会にまつわるアレコレをこの場に書いていきたいと思います。
参考文献:「嫌われる勇気」 岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社