賽銭箱に小銭を投げるように投票する
衆院選の投票日が近づいている。自分にも子供が生まれて、それなりにおじさんになった。よくあるように、だんだんと社会の問題の方へ興味が湧いてきている。ここ最近なんだか投票について考えずにはいられない。
「なんで投票率って上がらないんだろう。」「なんで投票ってかったるいんだろう。そのくせ行かないとなんで世間からなんとなく責められてるような気がするんだろう。」「若い人が投票に行くと、なんでちょっと意識高いまぶしい人みたいに思われたりするんだろう。」
色々考えたけれど、でもけっきょくのところ、おじさんの自分は投票に行く人が増えてくれたらいいなと思っている。
それで投票がもっと気軽に行けるものにもなるんじゃないかということを言いたくてこのノートを書いてみた。
投票は「選択」か「票を投ずること」か
投票について考えるとき、それはそもそもどういう行為なのかと考えると、最初に出てきた答えは次のようなものだった。
①投票は国民による選択である。投票とは主権者である国民による権利の行使であって、つまりは国民による厳粛な意思の表明である。それは国民が自身の意思としての貴重な一票を投ずる行為である。
とても真っ当で、ある意味真っ当すぎて眩しい意見である。もしかしたらいい加減な人には重たいものと感じられるかもしれない(自分はけっこうそっち派である)。
けれど、それ以外にも答え方はあると思う。
②投票とは、投票所へ行って投票用紙を投票箱に入れることである。
身もふたもないようなこの②の考え方は、投票というものを意見の表明、選択に限定していないところがミソである。つまり、投票用紙を投票箱に入れさえすれば何を書こうが書くまいが、どんな意見を持とうが持つまいが問わない、ということだ。白票や無効票も否定しない、意思や態度を問題にしない、ただ純粋な身体動作ーー投票用紙を投票箱に入れることーーこそが投票なのだということである。
私としては①の考え方も②の考え方も大事なものだと考えている。しかし重要なのは、投票における①(投票は選択)は、そもそも②(投票は投票用紙を投票箱に入れること)を前提として成り立っているということである。投票という行為においてその前提条件を成すのは、有権者が票を投ずるという身体行為である(当たり前すぎてスミマセン)。つまり有権者の意思が伴うかどうか、それが選択であるかどうかということは、投票という概念において必ずしも本質的なことではないとも言えるだろう。たとえば意思を伴わない投票、誰かに流されての投票みたいなものも、立派に投票の一部を成すのである。逆にどれだけ熱心な意見を持っていたとしても、もし投票用紙を投ずることによってその意見を示さなければ、それは投票とはならない。つまり、投票とはべつにまじめな人、しっかりとした意見を持つ人だけが参加するイベントなどではなく、どんな動機で投票に出かけたかなんて問われる必要のないことなのである。クソ真面目な人も、どうしようもなくいい加減な人も、なんとなくの人も、皆それでいいし、むしろ白票でも、間違えてしまった無効票でも、それこそ悩みに悩んだ一票でも、どれでもいいのだと思う。だってそもそも、すべての人に同じような真剣さを求めるのなんてどだい無理だし、下手したら選択の強制とも言われかねない。けれど、「投票に真剣さを求めるのが強制になるというのなら、いい加減な意見の人や行きたくない人を無理して投票に向かわせようとするのもやっぱり強制となるのでは?」という疑問も出てくるかもしれない。「投票は義務ではなく、権利なのだから」と。
私は投票は権利であるとともに義務にもした方がいいと考えているが、次にその根拠を示そうと思う。この時必要なのは、投票についての先の2つの考え方に加えるべき、次の3つ目の考え方だと思う。
③投票は民主主義を守る行為である
日本国憲法の第11条には、「 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあり、続けて第12条には「 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とある。「永久の権利」を「不断の努力によつて~保持しなければならない」というのはなんだか矛盾しているようにみえる。けれどここには、「権利というものは国家以前に人間に与えられているものである」という「自然権、天賦人権論」の考え方が反映されているのだと思う。つまり、人間としての国民が持つ天賦の権利は決して消えることのないものではあるが、国家がその存在を無視することはあり得るのであって(むしろ国家とは常にそのような圧力をかけ続けているものであるからこそ)、飛ぶ鳥が羽ばたくのをやめないように、国民は常に自らの権利を守り続けなければならない、ということを示しているのだと私は理解している。そしてある権利を守るということは、その権利を主張しそれを行使することによって成されるのだと私は思う。今回の投票というテーマに結び付けるなら、投票をすることこそが投票する権利を守ることになる、ということである。そして投票する権利とは日本における民主主義の根幹を成す権利の一つであって、それゆえ投票する権利を守ることはひいては民主主義という制度を守ることにほかならないのだと思う。
ソクラテスはなぜ毒杯を仰いだのか
でも正直なところ、「民主主義を守るとか、かったるい。忙しいんで」という気持ちも自分の中に当然あったりする。そんな時、私は『ソクラテスの弁明』におけるソクラテスの態度を思い出す。ソクラテスは不当な裁判によって死刑を宣告されたにもかかわらず毒杯を仰ぐことを拒まなかった。その理由とは、「自分は今自らが裁かれている国家体制とその法のルールの内で今まで不満を言うことなく暮らしてきたのだから、自分に都合の悪い時にだけそのルールを批判するようなことはしない」という主旨のものである。そして、このことは私たち日本人にも同じように当てはまるのではないかと私は思っている。今日、日本という国土に住んでいる人の全ては否応なく代表制民主主義という制度によって成り立っている国の内で生きているのであり、その恩恵も弊害も初めから受け取らざるを得ない状況にある。そしてその民主主義という制度・権利とは、その本質のうちに、それを構成するメンバー(国民)がそれへと参加することをシステム成立の不可欠な条件として含むものである。「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」という先に引いた憲法第12条の規定も、民主主義(国民主権)というものが国民の権利である以上、この同じことを述べていると理解することもできる。民主主義という制度の中で暮らし、その恩恵を受けて(しまって)いる私たちは、その民主主義が本質的に求めてくる「民主主義への参加」というものから逃れることができない。その要請から逃れることは、(きつい言い方をすれば)民主主義という制度の「恩恵」の内にあって民主主義を破壊する力に加担することだし、ソクラテスが拒んだのもそのような破壊へ加担することであっただろう。誰も参加しない民主主義などというものはそもそも成立しない。だんだんと人が集まらなくなっていく話し合いの場というものは廃れていくしかないのだ。システムの内でぬくぬくと暮らしながら、そのシステム自身の存続が懸かっているような求めを無視するというのは、やっぱりあんまりじゃないかと思う。
参加するということは居合わせること
なんだか自分を棚上げして説教くさくなってしまった。けれど「民主主義への参加」ということを、そんなに重く受け取らないでもらえたらと思う。さきに、民主主義に参加することは(その一つの重要な機会である)投票によって成り立つのだと述べた。そして投票というものはまずは投票箱に用紙を入れることなのだとも。どんな意見を持とうが、どんな態度でいようが、とりあえず投票という場に参加すること、つまり投票用紙を投票箱に入れることだけで、それは投票という場に居合わせることであり、投票という権利、制度を守る行為なのだということである。参加するということは、「ただそこに居る」だけでも成立する。意見を表明するとこまで行かなくてもいいし、選択をしなくてもいい、ただその場に居る(投票の場合なら投票箱に用紙を入れる)ことだけで、それもその場を守る行為にほかならないのだと思う。民主主義的な意見表明の場(選挙)というものは、まずは人がそこに集まってくれることを期待している。そこが出発点であり、まずはそこを満たせばいいのだ。
たとえば初詣みたいに
日本では年の暮れから正月にかけて、多くの人はクリスマスにはウキウキ(あるいはズーンと)して、そのあと何日かしたらとりあえず神社へ初詣に行く。「いい人」も「悪い人」も、真面目な人もいいかげんな人も、とりあえず一年の締めくくりと新年の始まりの行事に参加する。べつに神道を特別に推す気はさらさらないけれど、投票もそんなふうに自由であたり前で、そのくせ行かないとちょっとスッキリしない気分になるような、そんな感じのもんになればいいのになと思う。賽銭箱に小銭を投げて、たいして叶うとも思ってない願いを想う、そんなノリの投票もそんなに悪くない。
今回の衆院選、とりあえず次の4年間の願掛けのつもりで出かけていくのだって、全然ありじゃないかと思うのだ。
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