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トラムの様な人生と札幌の旅

生まれて初めて、一人で旅行というものをしてみる。9月の札幌はとってもいい。思い出を残すのはあまり得意ではないが気持ちがいいので書いてみたい。

短い32年間の人生、思いつくことは突拍子もないのだがそんなに波のある人生ではなかった。ずっとずっと、一個のことを続けてきた。思春期に好きになったものは今も好きで仕事になった。

短いが32年も生きてきてろくに旅行をしたことがないのはそのせいだ。
好きなものを仕事にできるほど好きになれる才能はあったが、それ以外に特に興味がなかったので、お金と時間をかけてする旅行というものへの価値が見つからなかった。


16歳の時には家を出て、歌舞伎町で過ごした。少し休んでいるけど、今も変わらず歌舞伎町にいる。

20代前半、好きな人が出来た。
大阪の人だった。
まだまだ子供だった私は、彼に会いたかったのでせっかく軌道に乗っていた仕事を捨てて大阪に引っ越した。
引っ越してもあまり彼には会えなかった。近くにいても頻繁に会ってもずっとずっと片思いで、これっぽっちも彼の目に私が映ることはなく、別れを告げて大阪の居住は終わった。
彼が私を忘れなければ行った甲斐があるのでそれでいいが、きっと彼は、いつか私を忘れる。

大阪では友達が沢山できて、自分の世界や自分のスペースができた。
今でも大阪に行けば朝まで語り合える友や、離れて暮らしていても私が躓けば声をかけてくれる友人が沢山できた。

その後京都に引っ越した。
一緒に住んでくれる人が居た。その人は、沢山の自分の友人を紹介してくれた。
皆と仲良くなれた。
でも私はその人の彼女でしかなく
それなりに長く住んだ京都では友達とよべる人は出来なかった。
好きな場所はあるけど、自分の世界や自分のスペースはなかった。
その人と二人の世界は楽しかったが、ホームシックになり東京に帰る。
でも、京都もいつでも帰れる場所になった。

東京に帰ると決めたら、帰れる場所がすぐに出来た。帰った瞬間仕事をする事が出来た。
大阪京都には4年居たけど、4年が一週間で元に戻った。
その一週間で、自分はこの場所に骨を埋めようと強く決めた。

そして今、多分平凡で特に何もなかった人生で初めて躓いている。

そんなわけで、旅行なんかする暇もなければ理由と用事もなく、友人や仲間は沢山いるが一緒に旅行にできるほど親密な人間は周りにいなかった。
私の葬式で泣いてくれたり恨みをぶつけてくれる友人や知人はきっと沢山いるが、一緒にもっと深い時間を過ごす友人を作ることは、残念ながら出来なかった。


そんな私が、今札幌にいる。
しかも10日も滞在するのだ。
きっかけは今年入ってあれだけ好きだった仕事に行けないほど体調とメンタルが沈んでしまいずっと引きこもりだったのだが、これも良くないと思いはじめ、札幌に行きたい用事が飛び石であったので決めてしまった。
特にしたいこともない。行きたい場所もない。
「旅行をしたことないからしてみよう」
という思いだけで決めた。やはり平凡でありきたりなのに、突拍子もない。

きっかけがありここ数年札幌に何度か来ている。その度に持ってくる服を間違えている。今回も温かくなるように服を買い足した。
だがしかし、本当に、気持ちのいい時間を過ごしている。

特にしたいことも行きたいところもないので、美術館や博物館に行って目についた事を知ることにした。
とりあえず動物や自然が好きなので、北海道大学に行った。博物館がある。
歌舞伎町ほどある大学の敷地内に大きな大きな木が沢山あるのにびっくりした。兎に角木が大きい。
時計台の様な木造のレトロな西洋建築がならび、博物館の外も博物館のようだった。
何がすごいって、これがどれだけ離れた郊外にあるのかと思えば、札幌駅が見える位置にあるのだ。

博物館に入ると、はく製が沢山あった。

やはりさすがの熊推しだったが、北海道には生息しない熊もいて楽しかった。
熊は日本で一番自然を感じる生き物だと思う。

熊とエゾリスと私

円山動物園ででっかいでっかい熊を見たことがあるが、いつか遠く登別の熊牧場に行きたいと思う。
一個、博物館に行って将来やりたいことが見つかった。


熊やマンモスに別れを告げて、今度は植物園に行く。
これまた剥製をたくさん見れる。

またレトロな西洋建築。
歴史の浅い札幌は、建築フェチにはたまらない場所かもしれない。

タロとジロのタロに出会えた。東京の上野にある博物館にジロの方がいて、もう一頭はどこにいるんだろうと長年の、疑問には残るが調べるまでもない疑問だった。初めての旅行でそんな疑問も晴れたし、私は日本の歴史上最も有名な犬コンビを両方剥製で見ることができたのだ。なんだか達成感がある。

そして植物園なので、木がある。

大きい。兎に角大きい。
空が広いせいなのか。周りが山ではないからなのか。管理されているとはいえ、どうして街のど真ん中にこんなに何本も大きな大きな木があるのだろう。
都会育ちだが、子供の頃は結構アウトドアだったので別に木を見慣れていないわけではない。
それでも本当に大きくてぼーっと見てしまったのだ。

でも、木はずっと木だ。
何年生きてても、街が変わっても、ずっと木のままで自分は変わらない。仲間や自分を訪ねて来るものはあるだろうが、きっと深い友人がいるわけでもないのに伐られるまでずっとそこに何百年も存在し続けるのだ。
自分の周りにはそういう人が多いと思った。
それは寂しいのだろうか。人によっては理想の人生なのだろうか。
私はそうなるべきなのだろうか、そうじゃないのか。

札幌の街は、トラムが走る。
かゆいところに手が届かないトラム。あんまり私の行きたい場所へは行けない。
街を歩く人には少し便利なトラム。街を走る車には邪魔なトラム。
待っていれば必ず出会えるトラム。トラムにとっては、毎日違う色んな人と出会う。
そんなに早くないから時間を伴う移動手段としてはあんまりメリットのないトラム。遠出に向かないトラム。

便利じゃないのに、なのに、ついつい乗ってしまうトラム。

木というより、私はトラムのような人生だな。

じゃぁ止まっている今は、点検中ぐらいのものだろうか。そしたら、点検が終わったらまた同じ線路に戻れるのだろうか。
それとももう、同じ線路に戻ることはないのだろうか。
戻れなかったら、廃車になるのだろうか。
それとも違う線路にまた乗せてもらえるのだろうか。

どこでもかんでも一人で、気持ちのいい気候でぼーっとして考えた。
札幌の9月は気持ちいい。
人生で初めての旅行での時間は、トラムのようにゆっくり正確に前に進む。

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