「名前」を知る
最近、草花の名前が気になる。
きっかけは、絵本・いわむらかずおの「14ひきシリーズ」だった。
森に暮らすねずみ一家の営みがいきいきと描かれる、言わずと知れた不朽の名作。いくら読んでも飽きない。
自然の描写は特に、(わたしが言うのも恐れ多いが)それはそれは見事だ。中でも草花の緻密さはため息もの。個性あふれるコミカルな表情を見せるねずみたちが、自然を愛し自然から愛され、豊かに生活していることがわかる。
そんな細かい描写と対照的な、文のシンプルさ。これもまた魅力だ。
わたしが心を掴まれたのは、「14ひきのピクニック」からの、この一節。
「やまぶき、ちごゆり、ふでりんどう。もりは はなざかり。」
花の名の素朴さ、美しさ。計算し尽くされたであろう単語の並び、見事。ひらがなだからこその柔らかな雰囲気。
花の名前。声に出してみると尚更感じる、独特の語感。わたしはすっかり魅了されてしまった。
花の名称にもいくつか種類があり、標準的なものは「学名」、そして「和名」「英名」などがあり、要はどこで呼ばれている名前か、ということらしい。また和名でも地域性による違いがあるようだ。(「とんじる•ぶたじる問題」然り?)
わたしは特に、和名に心惹かれる。先人が、この花を見て何を感じ何を連想したのかが表れている。そのセンスが素晴らしい。そして親しみを感じる。
たとえば、「ほとけのざ」。茎をぐるっと囲うような葉のつき方から、ここに神様がちょこんと触る姿を想像したしたのだろうか。
先述の「ちごゆり(稚児ゆり)」にしても「ふでりんどう(筆りんどう)」にしても、生活の中で目にする花だからこそ、このように命名されたことが伺える。人々が自然と、こう呼ぶようになったのだろうな、と。
個人的には、「セイタカアワダチソウ」という語感が特にすきだ。あえてカタカナで記したい。この名前だけで、なんだかニョキニョキ伸びて、ゴワゴワしてそうな感じが伝わる。リズム感も良い。一度声に出してごらんなさい、リピートアフターミー、「セイタカアワダチソウ」、はい!…どうですか?
最近、ささやかなガーデニングをはじめた。その楽しさの中には、花の名前を知ることも含まれている。
わたしの大のお気に入り、アネモネ。これはギリシャ神話に由来する名前。英名にはこの手の命名理由が多いようだ。
花の姿形から連想する和名に対し、花も虫も自然現象も擬人化する、西洋の人間主義を感じる。あくまで「人が花となった」という前提らしい。
あとは、友人に教えてもらった「ラナンキュラス」。幾重にも重なる花弁がそれはそれは可憐でうっとり見入ってしまう。
ただ、これらの名前にはどうしても心の距離感を抱く。荘厳すぎる感じ。ラナンキュラスなど、最初聞いた時はハリーポッターの世界観だなと思った。(事実、「リデュキュラス」「オブスキュラス」などの用語あり)
それらが咲き誇る姿は、日々わたしの心に潤いを与えてくれるけれど、やはり名前は大袈裟に思える。対する和名は、控えめで親しみやすい。母国語の力を感じる。
我が家のラナンキュラス様は、白い花弁のふちだけがほんのり薄桃色に染まっていて、まるで贅沢なレースを重ねているかのよう。わたしが名前をつけるなら、そうだなぁ。
「テンニョノハゴロモ」にしよう。センスはさておき、この花がぐっと身近に思えてきた。
一方、我が家の和名ちゃんたちはというと。
「ハナカンザシ」。細長く伸びた茎の先に、白くて丸い、可憐な花を咲かす。売り場のポップにも書いてあったが、つぼみも愛らしい。飴細工のようなフォルムがまっすぐな茎の先に付いている姿は、まさに「かんざし」だ。着物姿の少女の艶やかな黒髪をまとめている、そんな想像が膨らむ。
「キンギョソウ」は、ひらひらとした花弁が水槽の中でゆらめく金魚の尾を思い起こさせる。
これらを愛でた先人たちの、心のうちを覗いているような感覚。名前を知ると、わたしは、目の前に存在する花を超えた「何か」を見ている気さえしてくるのだ。
娘たちと児童館に行ったある日のこと。ままごとをする我が子を横目に、わたしはそこにあった草花図鑑を手に取った。かなり重厚な作りで、見ると刊行は50年近く前!状態は良く(ほとんど読まれていないのかも)、オールカラーで立派な代物。
思わず熱心に読み込んでしまう。まず名前を見てから、花そのものを見る。心が弾む。我が庭に咲く、愛しのお花ちゃん達の姿もあった。
ページをめくる手が止まる。ある花から目が離せない。
「バーベナ」である。小ぢんまりとした苗全体の中に小さな花がたくさん集まって咲く姿が愛らしい。育てやすい、そして安い。
そんな特徴から、ドドンと主役を張るというより、名脇役というイメージだ。言い換えれば引き立て役である。とりあえずその辺にいくつか植えときゃ様になる、わたしにとっては「モブ花」扱い。我が家では、先述のアネモネやラナンキュラスの横に添えられ、ほとんど背景と化していた。
その「バーベナ」である。
添えられた和名、「ビジョザクラ」。
びじょざくら?!び、美女?!?!あ、あんたそんな名前持ってたの?
あまりに立派な別名に衝撃を受けた。こんな名を持ちながら、わたしにモブキャラ扱いされていた美女は、さぞかし不満だったであろう。それにしても、「美女」かぁ…。ちとばかし名前負けしてませんかねぇ、いやいやそれこそ失礼か…。
以来、英名の派手な花たちの横にそっと佇む、バーベナを見る目が少し変わった。あまりに大仰な裏の(?)名前に本人も萎縮してるんじゃなかろうか。わたしだったらたまったもんじゃない。
いや、案外そうでもないのでは。周囲を引き立て自分の役割に徹することができるからこそ、この花は美女と命名されたのかもしれない…。
ともすると、美女に対し「そうあるべし」という先人たちの(一方的な)願いが込められているのではなかろうか。そうだとしたら、背負わせるものが重すぎやしないか。
ちらちらと小さな花を咲かすバーベナから、奥ゆかしさとある種の強かさを感じた。お前、けっこう凄いヤツだね。
名前を知ると、これまで以上のものが見えてくる気がする。