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私のお母さん

おはようございます、星みかです。
昨日2度も描きかけて消えてしまったnoteの超大作を
やっと書き上げたのに・・・・
また、書きたいことが出てきてしまった🤣

きっかけはこちらのツイート

幼少期に親からもらえなかった愛情を
自分が親になったときに生み出すことは
できるかな?

それについて、まだ親にはなっていないけれど
たくさんの親子を見てきた私なりの問いの答えです。

私はこの葵さんと同じ意識があり
親になることへの怖れがありました。
病気などもあり、私自身は親になることを選ばなかったけれど
若(甥っ子6歳)と接することで
少しだけ親の気持ちを味合わせてもらっています。


私のお母さん(ママン)

私は母のことを最近は名前で呼びます。
「〇〇ちゃん」
そう呼ぶようになったのは私なりの理由があるのです。

私のお母さんについてちょっと書きたいと思います。
でも、この内容ママンが読んだら
少し悲しい気持ちになるかな?と思うので
ごめんなさい
有料記事にさせてくださいね。

(ここから有料記事です。)


私の母は22歳で私を産みました。若い・・・✨
そして前提条件として私と言う赤ちゃんは
「よくなく子👶」
すぐに癇癪を起こして泣くし、
ちょっと違うと怒るし
いわゆる育てにくいタイプの赤ちゃんだったことを
合わせてご紹介します🤣
これ、とても大事な前提条件です。


母はどうしたらいいのかわからなかった

22歳で母となったママンは、切迫早産になり半年ほど入院していました。
手に職をつけたかったけれど祖父の大反対で
看護師や美容師を諦めて、就職、そして結婚
程なくして妊娠して、半年入院・・・
今なら、ネットで情報を集めたり、育児雑誌を手にとったり
ネットで赤ちゃんの洋服や必要なものを買ったりできたでしょうが
それは40年も前のこと
母はそのような妊娠中に多くのお母さんがするだろう
準備をすることなく、
入院したまま、出産を迎えました。

しかも産道に異常があり、
分娩を促すために、麻酔をかけて手術して出産をしました。
(当時研修医としてお産に立ち会っていた医師が
 20年後一緒に働くこととなり
 実は私こんな風に産まれたんですよね〜と言ったら
 俺そのときいたわ、と思い出すくらいのレアで壮絶🤣)

そんなわけでヘトヘトだった私のお産後
甲斐甲斐しく助けてくれたのは祖母だったのです。
近所に祖母やママンの妹がいてくれていたので
私は彼女らにお世話をしてもらって大きくなりました。
父も子煩悩で、当時は定時退社できる職場
お昼に体調の悪い母のためにご飯を作りに
家に帰ることができるくらいだったそうです。

そうやって母は助けてもらいながら
よく泣く子👶の私を育てていました。
でも、正直あまり可愛いと思ったことはなかったそうです。
(何しろ敏感でよく泣く子🤣)

赤ちゃんとよく泣くけれど、なぜなのかわからない
何をしても泣くし、どうしたらいいのかわからない
そんな存在だったそうです。



赤ちゃんってかわいいんだ❗️

2年後、妹であるこきんちゃんが産まれます。
こきんちゃんはいつもニコニコしていてご機嫌
おっぱいをあげれば、嬉しそうに飲み干す赤ちゃん👶
いわゆる育てやすいタイプの赤ちゃんです。
赤ちゃんの頃、こきんちゃんの泣き声をほとんど聞いたことがないと
誰もが言うくらいのスペシャルご機嫌赤ちゃん👶

(助産師として5000人以上の赤ちゃんを見てきましたが
 断言します
 赤ちゃんには育てやすいタイプと育てにくいタイプが
 明らかにあります‼️)

ママンはそのとき初めて「赤ちゃんってかわいいんだ」と思ったそうな😭



そして、父の転勤が決まる

私が3歳の頃、突然会社の状況が変わり
ずっと定時帰りできる職場にいるはずだった父が
突然関東に転勤することになりました。
しかも国内・海外問わず出張の多い仕事
関東にママンの知り合いは誰もいませんでした。

不安ながら、3歳の私と1歳のこきんちゃんを連れて関東に住むようになって
いつも助けてくれた父は出張続き
久しぶりに帰ってきた父を
こきんちゃんが「ママ、おじちゃん来たよ」と言ったのは
我が家ではリアルにあったのです🤣

関東に引っ越して数年
私は小学校低学年になり、こきんちゃんは幼稚園生
そんな頃、ママンは壊れてしまいました。

体調が優れずに横になっていることが増えました。
母に教えられて、私が家族の食事を作ることもありました。

大きくなっても
ちょっと気難しい私と
ご近所のアイドルいつもご機嫌なこきんちゃん

ママンは、私にいらだつように怒ることが増えました。
それはだんだんエスカレートして
倉庫に閉じ込めて鍵をかけて何時間も出してもらえなかったり
大声で泣き叫んでも家に入れてもらえず、玄関の前にいたり・・・
ご近所の奥さん達が心配して噂になる程・・・
そして、ますます口を閉ざして、気難しくなる私
悪循環です。



幸運なことに助けてくれる人がたくさんいた

あのまま行っていたら
私とこきんちゃんを殺して自分も死のうかと思ったと
後からママンは話してくれました。

でも、みんな生きています。

それは、周囲に助けてくれる人がたくさんいたからです。
ママンが運動が得意だと聞いて、
私たちが学校や幼稚園に行っている間にテニスやスイミングに誘ってくれる方
少し私とママンの距離を作ろうと
私を週に2回預かって、勉強を教えてくれる元小学校の先生
ときには、作ったおかずを届けてくださる方もいました。

そうやって
ママンは自分の時間を持ち、親子以外の人間関係を広げて
いろいろな方に助けられて
私たち姉妹を育ててくれたのです。

でも、この頃の記憶は私にとっては大きなトラウマで
ママンにとっていい娘でなければ
そう思うきっかけになったのも事実です。



学校に行けなくなった中高時代

ときは流れて、私もこきんちゃんも大きくなりました。
中学高校時代
私は成績は良いけれど、いつも窓の外を眺めたり本を読んでいたり
担任の先生からも「よくわからない子👧」
そしてこきんちゃんはクラスのアイドルです。

私は学校つまらない・・・馴染めない・・・いじめられる・・・
と学校に行かなくなりました。

どうして学校に行かないのかと問い詰めるママン
VS学校に行く意味ないと言う反抗期真っ只中の私

このときにママンの脳裏にあったのは
関東に引っ越した当初の数年間のこと
かわいいと思えなかった自分に理由があるのではないかと思い
担任の先生に相談したら
発達などの具合を診てもらったほうがいいと病院を紹介され
罪悪感でいっぱいだったと後に聞きました。



親子の会話ができるようになったとき

大学時代に、虐待のこと、それは母親の孤立から生まれることが多いこと
虐待された子どもは愛情不足だったり
愛し方がわからずに親になったときに戸惑うことが多いこと
などを学びました。

そのときに私はママンとの関係は
・少なくともあの数年間は虐待に値する行為だった
・でもママンにも理由があり、原因が取り除かれれば虐待はなくなった
ことを心理学などを学ぶにつれて認められるようになりました。
でも、そのときの母と私の関係はあまりいいものではありませんでした。

きっかけになったのは交通事故
自転車で横断歩道を渡っている途中に11トントラックに轢かれて
何メートルも飛ばされる大事故でした。
いろいろな幸運が重なり、一命を取り留めたどころか
首の鞭打ちと足の骨折という軽症で済んだのですが
救急車で運ばれた病院に
ママンがやってきたときの姿で「愛されている」と思うことができたのです。

またこの交通事故の怪我のために
大学に電車やバスで通うのは危ないということで
毎日片道40分ほどの道を、ママンが車で送迎してくれるようになったのです。

2人きりで往復1時間以上
こきんちゃんが産まれて以来、ママンとそんなに長い時間
2人きりになるのは初めての経験でした。

いろいろな話をするようになりました。
小さいときのこと、学校に行けなかった中高時代のこと
そして母が幼い頃のことを、私に謝ってくれたのです。

このときに私の固くなった心はゆっくりと解けだしました。
心理学を学んでいたおかげで
ママンの気持ちも想像することができていたので
そんなことを伝えたりして・・・・

私が「母親になるのが怖い」虐待の連鎖への不安も話したのも
この送迎の車のなかだったと思います。

そうしたらママンは
「赤ちゃんだったこきんちゃんが、ほとんど泣かなかったのは
 なぜかわかる? 
 みかがずっとそばで泣きそうになるとあやしていたからよ
 泣く前にお腹が空いているみたい、おむつが濡れたみたいと
 教えてくれてたし
 あんなに周りを信じる子に育ったのは
 みかちゃんがいたからだと思うから大丈夫」

そう言ってくれたのです。



いつからでも遅すぎることはない

たくさんのお母さんと赤ちゃんを見てきて
愛を知らずに育った人の多さにびっくりすることがあります。
そういった方たちは、
確かに愛し方を子どもの頃に学ぶことができなかったでしょう。
でも学ぶことはできます。
そして、子どもの頃に注がれなかった愛情を
大人になってからだって受け取ることができる
愛の器を大きくすることができる
心からそう思います。

親から学べなくても、友人や恋人から学ぶことができる
子どもからだって学ぶことができます。
愛に関して、私は性善説を採用しています。

だから愛は学ぶというより、思い出すのかもしれません。

育てながら学んだり、思い出したりすることだってできるでしょう。
少なくとも私は
育児中のお母さんに、赤ちゃんを愛する方法を伝えていきたいし
そのお母さんの愛が空っぽなら、私の愛を注ぎたいのです。

ママンの周りにいた大人たちがママンに愛を注いでくれたように
私は今のお母さんたちに愛を注ぎたいのです。

そうやってサバイバルした
ママンと私が注いでもらった愛情を
感謝をもって誰かに注ぎたいと思っています。
もちろん、注いでくれる人があなたの周りにいる人でもいいのですよ💕
ひとつだけ言いたい‼️
あなたが満たされていれば、愛は自然と溢れ出るものです。
愛を注いでもらいましょう✨



愛されていても愛されていなくても

私の場合は、実は愛されていたパターンです。
でも愛されていなかったと、思われる親子関係も少なからずあります。
だから、親だからといって全員が親と仲良くしようという気持ちはありません。
親だから一緒に過ごさなければいけない、感謝しなければいけない
そんな必要はないと思います。
明らかな毒親で救いようがない、って悲しくなることだってあるのです。

ですから
適度な距離を保ってください

親とは居心地の良い距離を保つことをおすすめします。
もし救いようがない親なら、戸籍を分けて2度と会わないことだって選べます。

私の場合、ママンとの適切な距離は

・「お母さん」と呼ばない➡️ひとりの人間としては魅力があり、おもしろい人
・一緒に暮らさない➡️ママンのネガティブ発言に傷つくことが多いから

こきんちゃんは
・やはり「お母さん」とは呼んでいないな
・実家はスープの冷めない距離がいいって言うけど、私はスープが冷め切って
 レンジで温めるくらいの距離がいいわ〜〜🤣と言っていました。



親にこだわる必要はありません

もうあなたは大人です。
子どもの頃なら、親に愛されなければ「死」の危険だって及ぶ
大変なことですが
今はどうでしょうか?

親からもらえなかった愛情を、誰か別の人に求めたっていいし
自分で小さい頃の自分を助けにいってあげることもできる
(インナーチャイルドワークなど)

もう、親から解放されていいのです。

そして、親以外からもたくさんの愛を受け取り
学んでいいのです。

現実を認めて、受け入れることがちゃんとあなたもできますよ💕



お母さんが大好きか??

若はよくこきんちゃんに
「お母さん、大好き〜〜💕」と言って抱きつきにいきます。

それを見るたびに、私はできないな〜〜って思います。
でも、私は若には「大好き〜〜」とハグすることができます。

だから大好きではないんです。
でも、ママンからの愛を認めては、います。



愛を注ぐこと

若に出会って、私の愛は大きく変わりました。
なんかよくわからないけど、かわいい、大好き
でもどうやって表現したらいいかわからないから、毎日試行錯誤です。

こうしたら、若が喜んでくれる
こうしたら、若が嬉しそう・・・

そのときに私が思っているのは
将来若に何が起きても
「みかちゃん、おいらのこと大好きだったしな」
って思ってもらえるのが目標です。

若が辛いとき、自信をなくすときもあると思います。
そんなときに少なくとも
「みかちゃんはおいらのこと好き」「おいらのこと、かっこいい〜」
でうざいほど言ってたな
と思い出してもらえるように

今日も若に「大好き💕」を伝えているのです。

だって、若が産まれてきただけで、今生きてくれているだけで
一生分の愛を、もうすでにもらっています。



あなたはやっぱり愛されています

そして最後にあなたに伝えたいことがあります。
親は選べない、生まれたくて生まれたわけじゃない
確かにそうかもしれません。

私は5000人以上の赤ちゃんの誕生やスタートに関わってきましたけれど
それと同じくらいの赤ちゃんを見送ってきました。

妊娠したときに
「あなたを産もう」そう思ってくれた人

ここまで大きくなるために関わってくれた人

そういった人たちがいたから
今、あなたはこの手紙を読むことができているのだと思います。

だから大丈夫
あなたは愛を知っています。



育児は大変
だってエンドレスでいろいろなことが起こります。
予想外のことや初めてのこと

だからこそ、あなたがあなたでいられるように
どんな形でも構いません。
あなたの愛の器に少しでも多くの愛を満たしてあげてくださいね。

自分で注いでも、周りの人に注いでもらってもいいのです。
あなたのお子さんだって、注いでくれていますよ。


それでも愛の器が満たされない・・・
そんなときは私を思い出してくだされば嬉しいです。

私はお母さんのお母さんでいたいから💕


それでは、また今度♡



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