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聖なる性の目醒め
ずっと、性に関わることは、
どこか日常と切り離されていた。
そこでしか得られない体感があって、
そこでしか得られない解放感があった。
そこでだけ、「わたし」でいられた。
とも言えるのかもしれない。
わたし、セックスの時に、よく泣いていたんだよね。
悲しいわけでもなくて、
自分でもどうして泣いているのかわからなくて。
今になって感じるのは、
それだけ自分を抑圧して生きていたということ。
セックスのときにだけ起きる深い解放感が、
苦しみや悲しみなどの感情を溶かして、
涙として流れ出ていたこと。
でもね、
泣くと、優しさから心配してくれたり、
もうセックスするような雰囲気じゃなくなったり、
わたしも変に気づかれないように静かに涙を流そうとしたり、
セックスで泣くという特性の中でも、
いろんな経験をしてきたと思う。
「優しさ」を向けてくれなかった人はいなかったけれど、
どうにかしようとしない人も、いなかった。
けれど、ただそのまま、「涙が出るんだね」って、
ありのままを受け入れてくれる人の出会いが、
わたしの世界を変えた。
そのことで、深い癒しが起きたのかもしれない。
未知なる領域に足を踏み入れてから、
セックスは日常の中に溶け込んだ。
肌に触れるそよ風を感じたり、
心地よい音楽に身を委ねたり、
美味しいお酒を味わったり、
細胞が震えるような体験や、
柔らかい温もりを感じる瞬間、
日常の中で感知できるものすべてが、
対象とのセックスだ、
みたいなことがタオの本に書いてあったのが、
とても印象的だったのだけど。
あぁ、こういうことか。
って腑に落ちたの。
これは、わたしの
聖なる性の目醒めなのだと思う。