価値を決めるのは、誰?
こんにちは。音海奏乃です。
今回は、価値についてのお話。
価値とは、なにか。
価値とは、だれが決めるのか。
そんなお話です。
価値とは……
価値、という文字を辞書で見ると、こうあります。
①あるものが何かの役に立つ程度
②財・サービスが人々にとって有用である度合い
普段の生活でも、使う言葉ですよね。
あの情報は価値があった、とか。
価値のあるものを手に入れた、とか。
ちなみに、評価という言葉。
それは、価値があるかどうかを判定する、という意味だそう。
価値が高いと判定すれば、評価も高い。
その逆は……。
ハンドメイドにしても、小説にしても。
販売や投稿をすると、反応が返ってきます。
反応の有り無しを、評価と捉えて。
評価が高いから、価値があると信じる。
今までは、そうでした。
評価が低いから、価値がない。
価値がないから、ダメな存在。
そう決めつけて、自分を責める日々。
価値が低いものだから、評価されない。
評価されないものは、存在意義がない。
そんな風にさえ、思い込んで。
でも、ある日思ったのです。
価値って、誰が決めるんだろう、って。
視点は一つじゃない
そう思ったのは、小説がきっかけでした。
小説にも、いいねやブックマークなど、評価がある世界。
たくさんついている小説は、すごい小説。
では、たくさんついていない小説は?
今までなら、ダメな小説だと思ったでしょう。
しかし、評価の多い小説が、楽しめなかったら、どうでしょう。
その人にとっては、あまり価値がないのです。
逆に、評価の低い小説で、心の平安に繋がったら。
それは、その人にとって非常に価値のあるものになります。
ショーケースに入れられた、ダイヤモンド。
宝石商の人や、コレクターの、あこがれの品。
多くの人が、これは価値がある、といいます。
けれど今、大けがに苦しんでいる人に見せたらどうでしょう。
きっと、それより医者を、治療を、と言うのではないでしょうか。
宝石商やコレクターには、価値の高いダイヤモンド。
大けがをした人には、価値の低いダイヤモンド。
同じダイヤなのに、人によって価値は違う。
価値があるとは欲しいものとは、違うから。
私が、自分史上最高の半熟目玉焼きを作ったとして。
満腹の人には、いらないものです。
半熟が好きじゃない人にも、好まれない。
空腹の人には、必要なものです。
半熟が好きな人には、喜ばれる。
満腹の人や、半熟が好きではない人の話。
「こんなの必要ないか……」
「作っても無駄か……」
それだけを聞いて、料理をやめてしまったら。
空腹の人や、半熟好きな人には届きません。
読んでいて、温かい気持ちになれた小説。
けれど、反応はほとんどなかった。
読んでいて、違和感を感じた小説。
だけど、反応はたくさんあった。
自分が、価値があると思っても、相手がそう思わない時がある。
相手が、価値があると思っても、自分でそう思えない時がある。
価値は、いったい誰が、決めるんでしょう……?
残す、それはいつかの希望
価値。評価。
その言葉に惑わされてしまう、気持ち。
痛いほど、わかります。
それで、筆を折ってしまう。
そして、創作をやめてしまう。
それが、一番恐ろしいことです。
私も、何度もやめようと思いました。
自分は評価が低い。されない。
価値がない、存在意義がない。
やめても、消えても、気づかれない。
暗鬱な気分を抱えたまま、沈みそうになったとき。
ふと検索で見つけたページに、気づかされます。
「そうか、残ってる……!」
それは、一筋の希望でした。
だいぶ昔に書かれた記事が、そこにある。
投稿してくれたから、見られる記事。
そこにたどり着くができたから、新たな成長に繋がった。
私は、幸せな気持ちに、なれた。
一方で、消されてしまった記事もある。
もしくは、最初から諦められてしまった記事も、ある。
浮かんだ思いを、声を、消すのは、もったいない。
そう、思ったのです。
記事を、残すこと。
思ったことを、形にして、残すこと。
やめないで、あきらめないで、書いてくれた。
それが、私を救った。
そこで、価値や評価なんて言葉が吹き飛びました。
「いつかの、誰かにとって、救いになるのかもしれない」
そう思ったとたん、やる気が湧いてきました。
今は、評価されなくても。
今は、価値がないように見えても。
見えないところで、誰かを元気にしているかもしれない。
見えないところで、誰かの幸せにつながっているかもしれない。
そう思えば、いいんだ。
すとん、と腑に落ちました。
……全部、都合のいい解釈、でしょうか。
それでも、構いません。
そう思うことで、動けるのなら。
人の、幸せのために、なるのなら。
だから、私も。
【伝え、灯す、そのために】
私の世界を、置いていきます。
時を経て、誰かの幸せに繋げられるように……。