見出し画像

”人に依存しない”ガイドライン

今日は哲学的な話。

 タイトルにある通り、人に依存しない方法である。ここでいう依存とは経済的な意味ではなく、恋愛感情での依存性について。

また、最後の方で人と連絡を取っていたり、一緒の時間を過ごしていないと落ち着かない人にも触れている。まずは恋愛の文脈において。

 僕のことを知っている人からすると「あまり恋愛経験が多くないお前が語るな」という主張が飛んできそうなので、それについて2つ言いたいことがある。

1つ目は、恋愛経験の豊富さと客観的に自分を見る能力は別物だということ。また今回の内容において、まさに恋愛経験が多い人こそ、人に依存している証拠である。(それについては後で分かると思います。)

2つ目は、シンプルに「黙れ!」と言いたい。

特に若者においては恋愛で振り回されてしまう人が多い。

 失恋した時に寂しいと感じるのは仕方のないことだが、無気力になったり自暴自棄になったりするほど精神的に病んでしまう人は治した方がいい。治し方に近いものはある。

 また、今後そうならないように、という予防薬としての効果も期待できると思っている。最後まで付き合ってほしい、自分の人生は自分自身が楽しむためにです。

 まずは、失恋時に感じる”寂しい”の正体から探っていきたい。寂しいをより言語化していきたいのだが、そもそも似ているようで違う”悲しい”と”寂しい”の違いはなんだ?

・私はペットが死んでしまって悲しい。
・私はペットが死んでしまって寂しい。

心なしか”悲しい”には、心が痛んでいる印象がない。一方で、寂しいには心が苦しんでいる情景が浮かぶ。こうして深堀っていくと、”寂しい”という言葉を使うには関係性が重要な気がしてきた。

親戚の友達の友達の近所のおじさんが引っ越して寂しい。

全く寂しい感じが伝わってこない。。。ギャグにすら聞こえる上に「お前全然、寂しくねーだろ」というツッコミすら聞こえる。

では、こちらはどうだろうか?

芸能人の〇〇が亡くなって寂しい。

おそらくこの芸能人は、みんなに愛されるキャラクターを持っており、お茶の間を楽しませていたのだろう。その人が亡くなってしまって、心に隙間ができた印象がある。

なんとなく、”寂しい”の正体が掴めてきた。『心に隙間ができる』、これがポイント。では、恋愛で振られた時の寂しいについて考えていこう。振られたら、なぜ寂しいのか?

それは、相手が自分の人生において限りなく中心にいることで、それがなくなった今心に隙間が空き、自分が何を中心に生きればいいのか不安になっていることが原因であろう。(生きるという表現は仰々しく聞こえるかも)

より厳密に表現するならば、自分の中での大切なものが彼氏/彼女が中心にいて、あとはそれ以外という位置付けになっている気がする。

 これは持論だが、人は何か生活の中心となる心の支えがなければ生きていけないと考えている。

仕事、恋愛、宗教、家族、趣味、部活、勉強などなど。

例えば、生まれてから30年ずっと信仰していた宗教が急になくなったらどうなるか?自分が自分でなくなるような気がして、それに代わる何かを死に物狂いで必死に探すだろう。あり得ない話だけどなんか想像つきませんか?

推しのアイドルが引退したら、違う推しを見つけようとするのも同じメカニズム。別に好きではないけど、推しが欲しくてその人を推しにする人だって少なくない。というより推しが欲しいのではなく、生活の中心が欲しいだけであろう。

 常に彼女や彼氏のことを考えて生活しているのなら、それがなくなったら不安になるのは当たり前で、他に何か自分を支える生活の中心となるものを見つけようと走ってしまうのは当然なのかもしれない。

僕はサッカーを十数年やっていたが、サッカーを辞めたときは、何か自分の中心となるものを見つけようと必死だった。もう何でもよくて、そこですっぽりハマったのが勉強だった。勉強は部活と同じくらい辛くて、その辛さがあったおかげでサッカーを辞めたことが許された気がしていた。


元々忙しかった人が急に暇になった時、ゆっくりしていると逆に落ち着かないことと似ている気がする。

こうして考えてみると、急に習慣を取り上げられたことで禁断症状とも言える気がする。

例えが渋滞して申し訳ないが、あなたは仕事終わりや学校終わりに帰ったら「このアニメ、ドラマを見る」といった感じでそれを楽しみに過ごしていた期間はあるだろうか。

 そのアニメやドラマが完結した時に味わう寂しさは、失恋してしまった時のそれに似ている。最終回を迎えた後で、僕はその寂しさを埋め合わせをするように続編はあるのか、その後どうなったのかネットで検索してしまう。なんちゃらロスってやつだ。

 ただ、時間が経てば夢中になっていたそれは人生においての序列が下がっており、気づいたら全然寂しくない。というより寂しいどうのこうのという考えすらない。


話を戻そう。

 もし、彼氏/彼女の存在と他の何か熱中できるものの序列が同じだった場合、たとえ振られたとしても熱中できる他の何かがあれば、そっちに時間と関心が向くだけであり、精神的な辛さはあるだろうが、立ち直りは早いはず。

 考えてみてほしい。彼女はいるけど、熱中するほどの趣味がある場合、四六時中彼女のことを考えているわけではない。他のことに熱中している時間は、全く考えていない。連絡が遅いことで不安になることもない。このような人が彼女がいなくなってヒステリックになるかというと、ならないと答える人が多いのではないか?


 ここまで噛み砕いて理解していくと、僕の中で大切なものが急になくなったり奪われたら悲しいし、取り返そうとするのは当たり前と考えられるようになってきた。それが恋愛であれば、関係を戻そうと必死になる人、違う人で埋め合わせようとする人がいる。

客観的に見ると、関係を戻そうとすることは至って普通な試みだとは思う。(度を越したら問題だけども。)まだ好きなら復縁を試みる方が賢明だろう。

僕が問題視するのは後者で、違う人で埋め合わせようとするタイプの人には108回以上の警鐘を鳴らしたい。


 心の隙間を埋めるように次から次へと恋愛を始める人がいる。だが、埋まるわけない。去った人が空ける寂しさの穴は、人によって空けるサイズや形が異なるからだ。考えてみれば当たり前で、その付き合っていた人は、世界にその人しかしかいないからである。

 過ごした思い出、その人の性格、何から何まで全てが合わさってその人である。そもそも違う人で代替可能であれば、元々その人と付き合う理由がないだろう。単に恋愛がしたかっただけなのではないだろうか。

 その人が去ってから違う誰かで穴埋めを試みても、サイズが違う穴は塞がらず、もはや穴を塞げそうな何かを手に持ち、どうにか穴が塞がらないか右往左往しているだけである。


 レジリエンスという概念があるのはご存知だろうか。これは回復力を意味するのだが、精神的な回復力を指す言葉である。何か嫌なことがあってから、それを乗り越える早さがレジリエンス。立ち直るのが早いのであれば、レジリエンスが高いと言える。

 失恋した苦しさを別の誰かでどうにかしようと試みるのは、痛み止めに過ぎない。誤魔化しているだけで、治っていないのである。時間が経てば自然に傷は治って気にしていないもので、気にしていないことが完治と言える。

 骨折した時も、最初は痛いものだ。でも、その痛さは体の正常な反応で治している最中とも捉えることができる。精神的な痛みにも同じことが言えるだろう。

 ただ既に述べた通り、失恋したらそれに代わるものを探してしまうのは仕方がない。ただ、重要なのはそれを知っているならどうすべきか、である。

 1つ目は、熱中している趣味などを持っておくことである。ただ、重要なのは、その熱中度である。それが生き甲斐の1つくらいの序列であるのが望ましい。趣味はなくならないし奪われないからお金や時間さえ気をつけていればどれだけ精神的に傾倒していても良いだろう。

意味をなさない例として、例えば、趣味が欲しいから始めたくらいでたまにそれを行うくらいのものでは失恋に対抗できない。それは趣味というか、気が向いたら遊ぶようなおもちゃである。趣味と言えるかどうかより、心からそれに熱中しているかどうか。

 大して今は好きでないものでも安心して欲しい。何事もそれに対して詳しくなったり上達すれば、より好きになるものだ。今はそれほどその趣味が好きでなくても続けること、そして接触間隔を短くすることが重要である。そうすればいずれ熱中しているだろう。

 2つ目は、忙しさを歓迎することである。時間は有限である。何かしているということは、何かができないという二面性がある。何かについて考えているのならば、1日の中で相対的に他の何かを考える時間が減っていくのは必然。

忘れたいのならば、忙しくすることである。そうすれば、悩みの種について考える時間も減ることになり、考える頻度や時間が減れば自然と忘れていくものだ。

忙しくしているものが仕事になった場合、仕事の結果も自ずとついてくるものだ。そうすれば、仕事があなたの中心になっているのではないだろうか。

 それでもその2つは塗り薬みたいなもので特効薬ではない。幾分マシになるくらいだろう。根本的には自然治癒だ。時間が経つのを待つしかない。他の誰かで埋め合わせようとするのは、傷口に触って腫れ上がり、新しい炎症を起こしてしまうようなものである。振り返ったら黒歴史が積み重なっていた、なんてことになりたくないだろう。辛いのを承知で時間が経つのを待つしかない。

最後に、継続的に誰かと時間を過ごしたり連絡を取っていないと落ち着かない人が世の中にいる。ここからは若干角が立つ話かもしれない。読んで気を悪くする人がいるかもしれないが、決して批判している訳ではない。僕は中立である。読みたい人だけ読んで欲しい。


僕の友人にもそういった類の男性がいて、一人だけ心当たりがある。

ただ、これは誰かへの依存とは違う気がする。(先に強調しておきたいが、別にここでそれが良い悪いの話はしていない。あくまで客観的に見た話。)

むしろ、時間の考え方であるのかと思っている。

僕の友人のその人からは、オンラインでゲームをしようと声をかけたり、飲みに行こう、買い物に行こう、などの誘いが来る。誘いがなくなったと思ったら、何か一人でゲームなど熱中している。それが終わったらまた誘いがくる。多動症だから?いや違う気がする。

 おそらくそういった行動パターンの人は時間を潰せる方法を探しているのだ。時間は使うもの、という考えではなく、時間は潰すものという考え方なのかもしれない。暇こそ最大の悪なのである。

 特別に何か目的がある訳ではない飲み会に参加するのも、家帰ってビールを飲んでテレビを見るのも、何もしないよりはメリットや楽しさがあるので全てやりたいという考えになるのは自然だ。

今日はここまで。

 僕は分析したらこうした方がより良くなるという提言で終わるよう心がけているが、価値観について言及するのは嫌いだ。究極、人生は幸せであればそれで良い。その人がそれで良いと考えているなら自分の価値観を押し付けるのは余計なお世話だからだ。

人に依存しないためには熱中する何かを手にする必要がある。





いいなと思ったら応援しよう!