Olde English 800
東京で学生をしている頃の趣味は、近所のジャズバーに行くことだった。せこせことバイト代を貯め、足繁く通った。
ジャズに詳しいというわけではなかったが、お店の雰囲気が好きだった。いろんな種類のカクテルがそこそこの値段で飲めることも良かった。住宅街の真ん中にぽっかりとあるお店。商店街を抜けて、横道に入ったところにあるバー。隠れ家的なニュアンスも良かった。行きつけのお店的なところがあるのもなんだかよかった。
実のところ。若くて、自意識ばっかりツンツンに高かった私は『若いのに、一人でバーに行ってお酒を嗜んでいる私』に酔っていたのだ。青くさすぎて笑ってしまう。そしてもちろん、『砂の数ほどあるバーやお酒を切っ掛けに始まる恋愛物語』にも憧れていたのだから、恥ずかしくて床の上をごろん、ごろんと転がってしまいたくなる。
ジントニック、ウォッカトニック(クランベリージュースをほんの少したらして)、ギムレット、マティーニ(ダーティな方がよろしい)、コスモポリタン、バラライカ、ギムレット、ブラッディメアリー、でもブラッディシーザーの方が好み。
『マティーニを飲んでいて。オリーブを抜いてもらったの。それを横でみていた彼がね、オリーブ抜きのマティーニなんて正気かよ、なんて言いながら話しかけてきたのがきっかけ』
『ホワイトレディって知ってる?白い貴婦人。レモンジュースを入れて作から、さわやかな香りがするんだ。甘いしね。なんとなくだけど、君に飲んでもらいたいって思ったんだ』
『モヒート。魔法とか魔術、あるいは麻薬のとりこになるって言葉がこの飲み物の名前の由来なんだって。知ってた?』
まぁ、こんなセリフ、クソくっさくて笑っちゃうけど。
見つめあって、囁きあって、バーカウンターの下でほんの少しだけ指先同士がふれたりとか。
意味深な視線を交し合って、微かな笑みだか何かを浮かべて、ほんの少しだけ酔いの回った、ぼんやりする頭で必死に考えるの。どうやったら目の前の人を自分のものにできるんだって。
いいじゃない。恋の始まり、出会いのきっかけ。無駄に知っているカクテル知識とか、ひけらかしてみたいじゃない。世の中に砂の数ほどあるお酒から始まる素敵な恋の物語の一部になってみたいじゃない。
「は?やれるもんならやってみろや。飲み比べで負けるわけねぇだろ」
「はは、よく言う。アンタは本物のビールってものを知らないんだよ」
これが、現実。私と彼の出会いの言葉である。
そしてこの時の恋が、私の人生で最後の恋になった。つまりは、伴侶というものとの出会い。ロマンティックでもなく、物語的でもない、恋の始まり。
はぁ、カクテルで夢みちゃうような素敵な恋愛物語を語ってみたい人生であった。あれだけバーに通い尽くしたというのに、ロマンティックのロの字もなく、私の人生における最初で最後の熱烈な恋愛は始まった。
アメリカ北部の田舎街。大学生にはお洒落なバーに行くようなお金もない。大都会のきらびやかなパーティーシーンと異なり、スポーツバーなら腐るほどあるが、映画で見るようなおしゃれバーすら存在しないし、そもそも、存在したとして、若い女が一人で行けるはずもない。
友達に誘われたパーティはつまらなかった。
日本に帰る友人の友人を送り出すサヨナラパーティ。そもそも社交的でない上に人付き合いの苦手な私は、友達に引きずられて渋々、パーティに参加した。パーティーの主人公の人だって、数回会話しただけでよく知っているというわけでもない。そんな人にさよなら、お元気で、などと言われても、はぁ、そっすね、としか返すしかない。実際、そう返された。
人見知り。人付き合いが苦手というのもあるが、カテゴリー、つまり「日本人である」というだけでこ仲良し風にツルむというのに慣れなかった。「仲良し」なんではない。あくまでも仲良し「風」。日本にいたら絶対にしゃべらないよね、というような。あからさまに趣味だとか、性格だとか、なんの共通点もなく、年齢もバラバラ。ただただ同じ国から来た人同士というだけでなんとなくくっついて、なんとなく会話して、なんとなく仲良くしなくてはならないというのが、私にはどうにもこうにも向いていなかった。
最初は、顔見知りの何人かと話をしたけれど、さして会話も発展せず、するばずもなく、私はぼんやりとしていた。
人で溢れかえるリビングとダイニングに居場所がなく、かといって、帰ろうにも足がない。友人が運転して、ここまできたのだもの。キッチンの隅にあったテーブルセット。その椅子に腰かけて、煙草を吸いながら、キッチンの山積みになっている生ぬるいビールをひたすらに飲んでいた。いろんな人が持ち寄ったものの、冷蔵庫に収まり切れないビール。リビングやダイニングには、別の種類のお酒もあったけれど、わいわいと盛り上がるパーティの輪の中に行きたくはなかった。
こなきゃよかったと思ったが、ビールがタダで、室内で煙草を吸っても良かったので、まぁ良い、時間をつぶせばね、なんて思った。あぁこれ、あれか、壁の花ってやつかと思っていたけれど、花って柄でもないわな、アホかな?と自嘲した。
今ではもう想像すらできないけれど。それはスマホが無かった時代。私はただただビールを飲み、煙草を吸い、ぼんやりとパーティーに集まった人達を遠巻きに眺めていた。人間観察といえば聞こえが良いが、単に手持ち無沙汰、そしてコミニュケーション能力ゼロの人間が唯一できる事である。
夜、暗くなったら外に一人で出ない。少しでもお酒を飲んだら一人では行動しない。留学生の、特に女性がトラブルに巻き込まれないための第一の、そして絶対の条件である。なので帰宅することもできず、ひたすらにビールを飲み、煙草を吸った。
「つまらなさそうだねぇ。そんなにつまんないなら帰ればいいのに」
どれくらい時間が経っていたのだろうか。来た時には、まだ封を開けていなかった煙草がほとんどなくなっていた。
「帰りたいけど、足がないから待ってる。んで、どうせタダなんだし、私も持ち寄り分でもってきたから、ビール飲んで待つことにしてるだけ」
私に話しかけてきたのは、髪をきっちりと編み込んだ黒人だった。先ほどから、たくさんの人たちの真ん中で楽しそうに笑い、やたらと声の大きい男の子。ぱっと見て、歳はわからなかったが、おそらく私たちと同じような大学生なのだろう。パーティーにいた殆どのコたちは日本人だったけど、3割くらいの数でアメリカ人や他の国からきた学生たちがいた。
「彼の友達?」「誰の友達?」「どこの学校?」「何の学部?」「なにじん?日本人?」「どこに住んでんの?」「何飲んでんの?」「何か食べる?あっちにチップスとかあるよ」
彼は立て続けにいろんな質問を投げつけた。早口の英語だった。最初の方だけ答えていたが、だんだんとダルくなっていた。話すことはできるけれど、まだまだ会話がスムーズとは言えないレベルの英語。しかも飲んでいる。私みたいのは放っておいて、さっさと輪の中に戻ってやいやい盛り上がればいいのに、なんなんだ、この人……一人だから可哀そうに思われたのか?少しだけ考えて、このウザがらみアメリカ人から離れよう、と思い、私は言った。
「タバコきれたから、買ってくる。じゃぁね」
さいなら、そう心の中で呟きながら椅子から立ち上がると、コートをつかんだ。「一人じゃ危ないよ!俺がお店、ついて行ってあげる!」という。大きなお世話だ、放っておいておくれよ……
「いや、ここのビル出て、信号わたるだけじゃん?大丈夫」そう答えたというのに、彼は私の言葉を無視して、わたわたとコートを羽織りながらついてきた。
2月。皮膚が切れるほどに寒い街。雪が降らないほどに寒いという種類の寒さを私はこの街に来て初めて知った。
大きな二重の目。深い茶色に一滴だけ墨を混ぜたようなブラウンの瞳。まるで何事にも興味津々のな子犬のようにその目がくるくる周る。ひょろひょろの痩身なのにオーバーサイズのTシャツを着て、これでもか、とジーンズをずり下げて履いていた。時代劇に出てくる殿中でござる!みたいじゃん。裃かよ。よく転ばないな、この人……と私は真顔でそう思った。
「ねぇねぇ、ずっと見てたけど、すっごい飲むね?お酒好き?」
ほんっとにうっとおしいな、この人。内心、そんなことを思いながら、「うん。好きだよ。そんなに飲んでるとは思わないけど」自分の表情は見えないけど、ブスっくれていたと思う。
「いや、結構、飲んでるよ?まぁ、言っても君、女の子だし、飲めるっていっても知れてるよね、あはは」
そう言われた。『まぁね、うふふ』などと適当に答えておけばよかったのに、缶ビールを2ダース近く飲んでいたから、酔っぱらっていたのだと思う。いや、酔っぱらっていた。
「は?あほか。そんなわけない。アンタよりは飲めるはず」
売り言葉に買い言葉ではないが、少しばかりムッとして……なぜなら、私は負けず嫌いであり、そして酒飲みとしての幾ばくかの矜持的なものがあったせいである……と格好をつけて言ってみたいけれど、なんのことはない、酔っぱらっていたのだ。
徒歩45秒。食品から色んな生活雑貨の溢れる雑然としたコーナーストアに入店してからも、私と彼は言い合いをしていた。
明らかに酔っている黒人とアジア人の組み合わせ。インド系であろう店員が何かを探るようにじっと私達を見ていた。だが、私達はそんなことには構わず、どっちが多く飲めるか、そんな言い合いをし続けていた。
で、冒頭の出会いの言葉になるのである。
「は?やれるもんならやってみろや。飲み比べで負けるわけねぇだろ」
「はは、よく言う。アンタは本物のビールってものを知らないんだよ」
そう言って彼は大きなビールの瓶を何本かゴゥゴゥとやかましい音を立て続ける冷蔵庫の中から取り出して、それをずい、と私の目の前に見せた。
「ほんじゃさ、パーティーに戻って、コレ、どっちがどれだけ飲めるか勝負しよう」
Olde English 800 40オンスの大瓶。40オンスと言えば、大体、1.2リットルくらいだから、大きなソーダのペットボトルと同じ量である。
それは、名高きゲットービール。アルコール度数8%のモルトビール、発泡酒。安い、すぐ酔えるビール。アルコール度を上げるために糖分を多めしているビール、というところだけが、何とかして掬い上げられそうな『恋愛要素っぽい』言葉。「糖分高め」
「いいよ」私はそう答え、自分でも持てるだけのそのやたらと大きく、茶色いビールを持った。そんな安い、名前も知らないビールなんて飲んだこともなければ、アルコール度数が8%だという事も知らなかった。1リットル超えのビールだというのに、なんとお値段、2ドルぽっきり。
1リットルのビールが2ドル。なんということでしょう。私の頭の中で、『俺とお前と大五郎』というあの安焼酎の売出し文句がぐるぐると回り始めて、会計をしながら私はニヤニヤと笑った。それを彼は不思議そうな表情で眺めていた。
今振り返ればひどくトホホな話であるが、これが私がアメリカで触れた一番最初の『ブラックカルチャー』である。モルトリカー。
ゲットービールとゲットーで育った少年。カレッジパーティ、雑然としたコーナーストア。
パーティに戻ると、彼の周りにたくさんの人が集まった。今から飲み比べするよ、という彼の言葉と抱えられたビールを見て、それが何かを知っていたコたちは、やめな、やめときなと真剣に私を止めたが、それをシカトして私は彼と勝負した。
勝負は私の勝ち。早飲み勝負で打ち負かしてやった。
初めて口にしたそのビールは、とてもまずかった。やたら甘ったるくて、粗雑な味がした。発泡酒と同じようなものだとは思うが、発泡酒よりうんとまずかった。ただ、がっつりと酔った。早飲み対決の前から結構な量を飲んでいたのである。文字通りの千鳥足になっていた。
すっかり酔っている私を友人は呆れながら車に乗せてパーティを後にした。「ちょっともぉ、飲みすぎだよ」と友人に叱られながらも私はご機嫌だった。だって飲み比べで勝ったから。
私は、男のコの名前も、年齢も、連絡先も何も知らないまま、勝負に勝ったぜ、がははははと、ただ、ただ満悦至極で帰宅し、化粧も落とさず、洋服のまま、泥のように眠った。そして翌日には、その男のコの存在をすっかり忘れていた。
それから数か月後に私たちは再会することになり、そして付き合いが始まったのだけど、それはまた別のお話。
ゲットービールの40オンス。これが私と彼の長い、長い付き合いの始まりである。糖分多めの安ビール。
思えば、憧れ続けたお洒落なカクテル恋愛物語よりも、こっちの方がうんと私らしいし、多分、ものすごく「私たちらしい」物語の始まりだったのだと思う。
END
追記:今回は#ほろ酔い文学というタグを見つけました。お酒をテーマにした小説やマンガなどの、創作作品を投稿してください!ということなので、いつもとは少し違う風に文章を書いてみたのです。ほろ酔いどころか、話自体は泥酔なのだけど、何がほろ酔いって、数日の間、ちびちび飲みながら書いたNoteなのでほろ酔い。少しばかり冷え込んできたのでお供はホットラム。ダークラムを温めて、シナモン、メイプルシロップを少し。薄切りにしたオレンジを浮かべたもの。それにしたって改めて「なれそめ」というものを書き出してみと、なんかえらいはずかしい気がします。