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「“食べる”なんてこの世から無くなれ」と願っていた私が『旅するおむすび屋』を始めた理由

はじめまして。旅するおむすび屋の菅本香菜です。

食の楽しさや大切さを届けるために
日本全国を巡ってその土地の魅力をおむすびで表現したり(絶賛書籍化に向けて旅の計画中!)
子どもたちとおむすびを通して食育の授業をさせてもらったり
ECの商品セレクトや商品開発をお手伝いさせてもらったり
といったことをさせてもらっています。

詳しくはこちらのnoteへ💁‍♀️

「ところで何で食に関わる仕事をしているの?」
とよく質問をいただきますが、私が食に興味を持ったのは中高生時代の体験からです。

身長158センチ、最低体重は23キロ。
死もすぐそばにあった6年間の拒食症との闘病生活。

コロナの影響を受けて自宅でゆっくり時間があるタイミングで
私の原点を振り返ってみようと思いました。

今苦しんでいる方にとって
ほんの少しだけでも希望になってくれることを願って。

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●信じられるのは数字だけ

人の顔色ばかり伺う小学生でした。
嫌われるのがこわくてたまらない。
友達から裏切られるということも経験して
人付き合いがどんどんこわくなっていきました。

中学生になっても、それは変わらず。
周りでいじめがあっても、
いじめる人に良い顔してしまう。
いじめられている人にも何もできない。

入部したバレー部は、陰口が絶えない場所で
毎日ビクビクしていました。
そして、自分に陰口が向いたことに耐えきれず
肺炎で学校を長期で休んだことをキッカケにすぐ部活を辞めました。

嫌われるのがこわい、そればかり気にする自分が嫌い。

「なんで私はこうなんだろう」
自分で自分を信じられない、自信がない。
反抗期で、その弱さを家族にも見せられず
どこにも居場所を感じられない。

そんなとき、ふと
「足太くなったんやない?」と言われる出来事がありました。
中学2年生になった頃のことでした。

“出来事”なんて大袈裟かもしれないですが
私には大きく引っかかってしまいました。

それまでは「やせてるね」と
言われる方がどちらかというと多くて、
数少ない、人から褒められる点が
失われてしまうことに危機感を感じたんだと思います。

これがキッカケでダイエットをはじめました。
まずはマヨネーズとか高カロリーのものをとらないことからスタートしましたが、
その頃、「17時以降食べないダイエット」というのが流行っていて
チャレンジしてみることにしました。

17時前、家族がまだ誰も家にいない時間に一人でご飯を食べ始めました。

何を食べたら良いんだろう、何を食べたらいけないんだろう、
雑誌に載っているダイエット法は全部守らなきゃいけない気がしました。
食べていいものなんか、ない気がする。

中学2年生の夏頃からどんどん食べる量が減り、
食べることがこわくなっていきました。

毎日体重計に乗って、減り続ける体重を見て安心する日々。

誰かが私を裏切っても、
数字は私を裏切らない。

同じ頃、勉強にも没頭しはじめました。
テストの点数は100点じゃないと嫌。
成績の順位は学年1位じゃないと嫌。

なにか、安心できるものがほしい。
誰かに、認められるものがほしい。

もっと、もっと、もっと。

気がついたら、
ガムを噛むことすらこわくなっていました。
噛みはじめたガムを何時間も噛み続ける。

お母さんが作ってくれたお弁当も食べられなくて
友達におかずをあげたり、それでも残ったものは
飼い犬のソラにこっそりあげることもありました。
そして少し泣きました。
ごめんなさい。

食べなくても罪悪感。
食べてしまっても罪悪感。

この感情をいったりきたり。

食べるのが、こわい。


●生まれてきてごめんなさい

家族で商業施設に行ったときのことでした。

「え、あの子痩せすぎやない?」
「食べさせてもらっとるんかな?(笑)」
私を振り返って話す声が聞こえます。
きっと家族の耳にも届いていたはずです。

お昼の時間になったので商業施設の中のお店で
ごはんを食べることに。
ごはんが運ばれてきても、いつも通り食べられず
ドリンクバーのお茶ばかり飲んでいました。
それを見ていた父親が食事後に
「食べんと死んでしまうよ、食べようや」
と少し怒り気味で伝えてくれました。
私のことを大事に思ってくれたからだということは
今となっては、とても分かります。

でもその時の私にはどうしようもなかったのです。
目の前で「なんで食べんと?」という顔をされるのが
1番苦痛で、もっと食べられなくなる。

そのことを理解してくれようとしていた母は
「食べたくても食べられんのよ」と父に反論。
それがキッカケで、商業施設の前で大喧嘩になりました。

いつもは本当に仲の良い両親。
喧嘩している姿なんてほとんど見たことがない。
そんな2人が目の前で大喧嘩をしている。

私のせいで、ごめんなさい。
仲良い家族に負担ばかりかけてる。
ごめんなさい、ごめんなさい、
この家族に私はいらない、
生まれてきてごめんなさい。

2人の喧嘩を止めることもできず、
ただただ泣いていました。


●食べることを強要してしまう

当時、両親だけでなく、弟にも妹2人にも
本当に迷惑をかけていました。

拒食症になってから、
人が食べているところを見ると
安心するようになりました。

「太っていない人もこれだけ食べてる。
私はそれよりも、もっともっと食べてないから大丈夫」
と、きっと自分を安心させたかったのだと思います。

逆に言うと、人が食べていないと
とても不安になっていました。

妹が食欲がないところを見ると猛烈に不安になる、
不安とか恐怖とかが入り混じってむしゃくしゃして
心臓を掻きむしりたくなるような感覚。

食べられない妹を見て、きっと本当に嫌な顔をしていたり
高カロリーなものを兄弟に勧めたりしてしまってました。

それでもいつも通り笑顔でいてくれようとした弟と妹。
自分は最低な姉だな、と思っていました。

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●病院、行ってみよっか

中学2年生の冬ごろ。
夏から発症して半年で拒食症の症状はますます悪化、
誰が見てもおかしいと思うくらいガリガリ。

気がついたら体重は23kgまで落ちていました。

それでも太るのがこわくて食べられないし、
骨と皮の状態で運動も必死にする。
朝4時に起きてこっそり1時間くらい走ったり
お風呂も2時間以上入ったりしていました。
そして体重も1日に何度も測り、その数字を見て一喜一憂。
明らかに行動が異常でした。

体にはかなりガタがきていました。
生理が止まってしまったのはもちろん、
膝を曲げてしゃがめなかったり
体温が低くなったからか背中に産毛が生えてきたり。

寒さが厳しくなった日に、震えが止まらなくて保健室へ行きました。
冬を越えられる身体ではなかったのだと思います。

母が保健室に迎えに来てくれたとき
保健室の先生が、母に「すぐに病院に行ってください」と
アドバイスしてくれたそうです。

その後、母から涙目で「病院行ってみよっか」と言われて病院に行くことにしました。
母の涙に胸が締め付けられました。

近所の小児科へ行きましたが
「重症だから」と、もっと大きな医療センターへ行くことを勧められました。

医療センターで検査をしたら
脈も遅くなっているし、
CT検査では脳が萎縮していることも分かりました。
想像以上に、心も体もボロボロだったみたいです。

「すぐ入院です。このままだと死にますよ」

お医者さんから“入院”という言葉を聞いて
私は自分でも驚くほど、ホッとしていました。

息苦しい学校にも行かなくていい。
迷惑ばかりかけてしまう家にもいなくていい。


●入院生活のはじまり

入院を喜んだ私でしたが
いざ入院してみると、辛い毎日がそこでも待っていました。

『行動制限療法』という治療法だったそうなのですが、
まず「何もしてはいけない」というところからはじまります。

家族含め誰かとの面会も電話もダメ。
勉強をするのもダメ。
運動するのもダメ。
テレビを観るのもダメ。
本を読むのもダメ。

トイレに行く時以外、病院のベットに寝ていないとダメ。

“何もしない”ということがこんなにも苦痛だなんて思いませんでした。

そこから、
体重が0.5kg増えたら
ひとつずつできることが増えていくというルール。
電話を10分許されたり
本を30分読めるようになったり、
そうして少しずつ“体重”と“できること”は増えていきました。

ただ、拒食症自体は良くなっていませんでした。
相変わらず食べることも体重が増えることもこわくて
体重測定前に水をいっぱい飲んで体重が増えたように誤魔化したり
看護婦さんなどにバレないようにトイレの中でできる運動をしたり。

かんじんの“心”は良くならないまま、
3ヶ月の入院生活を終えました。
中学校は義務教育ということもあり、
院内学級に通っていたので、留年はせずにすみました。


●高校2年生で留年

数字への執着は相変わらずで、
勉強は親が止めるほどやっていたので
無事に高校受験はクリアしました。

新しい環境ということもあり
少しは周りと上手くやっていくことを
自分に対して期待していました。
でも、結局拒食症が治っていないので
見た目もガリガリ、行動も変。
なかなか周りと馴染めず、早々に自分に失望しました。
「なんで自分だけこんななんやろ」
いつもそう思っていました。

結局、高校入学後にまた症状が悪化し、
また体重は20kg台前半に。

中学生の頃に入院していた病院の先生があまり合わなかったので
母の知人に勧めてもらった個人クリニックへ行くことにしました。
前回入院したときと同じように、普通の生活をしているのが危険という状況。
大きな病院であれば確実に入院でしたが、
クリニックには入院できないので夏休み前から自宅療養をすることに。

夏休みが終わってもまだ学校に戻れる状況ではなかったため
出席日数が足りず留年することになりました。

「長い人生の中で1年なんて」
そう言ってもらっていましたが、
やっぱり、高校生にとっての1年は大きかったです。

相変わらず食べない罪悪感と食べる罪悪感で頭の中がぐるぐるぐる。
休学なんかしたって、食べられないし、運動だってしてしまう。
何もしていない自分が、みんなに置いていかれているようで恐怖を感じる。
出口が見えない、病気を克服したいのかも分からない。

こうなったのは自業自得。
ただ食べれば良いだけ。
みんなが当たり前にやっていること。
わかってるのにそれができない。
食べるのが、こわい。

ただ退屈、とも違う。
なにかとずっと闘っている。葛藤している。
自分を責め続ける。
そんな休学期間でした。


●私を救ってくれた人

留年して、2回目の高校2年生。

始業式の日。
去年まで同じ学年だった子たちが
1つ上の学年として隣の列に並んでいる。
心臓がぎゅっと苦しくなりました。

同じ列には「あれ誰?」という顔の子たち。
「病気で留年したらしいよ」
チラチラとこちらを見る視線が痛い。
「やっぱりうまくやっていけんかな」と思った初日。

その後もなかなか新しい学年になじめない日が続きましたが
仲のいい友達ができて、私の高校生活は少しずつ変わりはじめました。

ボーイッシュで明るくてクラスで人気者の女の子。
(仮にAちゃんとします。)
私にも好奇な目を向けることなく
ひとりの友達として声をかけてくれました。
久しぶりに、気を使わず緊張せずに話せるのが嬉しくて
「人と普通に接することができるようになるかも」と
小さな希望をもらいました。

それから、Aちゃんとは更に仲良くなって2人でも遊ぶ仲に。
友達と遊びに行くと食事の時間に気まずい空気になるのが嫌で
なかなか出かけられなかったのですが
Aちゃんは、私が食べられなくても気にせずにいてくれました。
Aちゃんは普通に食べるし
私が食べられなくても「何で食べないの?」と嫌な顔もしない。
それが心地よくて、久しぶりに「食卓にいて良いんだ」と思えました。

私と一緒にいて楽しんでくれる人がいる。
そのことが私を救ってくれました。

これまで、家族が私のことを必要としてくれていることも
支えてくれていることも充分感じていたけど、
それは“血が繋がっているから“で、
それが無ければ私は誰にとっても必要が無い人。
実際に、家族には迷惑しかかけていない。
そう思ってしまっていました。

“人が死にたくなるのは
世の中から必要とされていないと感じるとき”
という言葉をよく聞きますが、
まさに私はその状態だったんだろうな、と。

それが、1人の友達のお陰で救われました。

Aちゃんと一緒にいるのが楽しくて
彼女と一緒にいる食卓を楽しみたくて、
高校を卒業する時には、少し食べられるようになっていました。

●さよなら、拒食症

長い高校生活を終えて、いよいよ大学生。
北九州から出て、熊本でのひとり暮らし。
完全に新しい環境に不安もあったけど、
Aちゃんと仲良くなれたことが小さな自信となって
夢も希望も同じくらい持てていたと思います。

実際、大学入学後は仲の良い友達がすぐにできて
これまで人間関係に悩んでいたのが嘘のようでした。

サークルにも入ってみました。
中高生で部活もできず、体育祭なども出られなかった私にやってきた、遅めの青春。
サークルの新入生歓迎会では、
自分でも驚くくらい普通にジュースを飲んだり
ごはんを食べたりしていました。
久しぶりに「おいしい」という感覚を取り戻しました。

ああ、ごはんを食べるって、こんなに楽しくて
しあわせな時間だったんだ。

後から振り返って思うのですが、
きっと私は6年間、拒食症に“守られていた”部分もあったのだと思うのです。
「拒食症だから、人とうまくやっていけない」
「拒食症だから、自信が持てない」
「拒食症だから、自分は世の中に必要とされない」
そう思えていたから。

大学に入って、友達と普通に仲良くなれて、
“拒食症の自分”がいらなくなったから
さよならできたのかもしれません。

そういう意味では、
これまでと全く違う環境に“逃げられた”のは
とても良かったのだと思います。

拒食症が完治してから、
家族や友だちとごはんを食べて
「おいしいね」と笑える幸せに気づきました。
体もどんどん元気になっていきました。

中高時代に、みんなのような青春時代を送れなかったことはコンプレックスではあったけど、
“食べられることの幸せ”や“食べることの大切さ”は、6年間拒食症と向き合い乗り越えた私だからこそきっと伝えられる。

そう思えるようになりました。


●6年間は無駄な時間じゃなかった

そうして、現在。
10年ちょっと前まで、
「“食べる”なんて無くなってしまえばいいのに」
と思っていた私は、
食べることの大切さや楽しさを伝えるため
『旅するおむすび屋』として全国各地で食の大切さや魅力を伝える仕事をしています。
おむすびなら、基本的に誰でも結べて誰でも食べられるから、誰とでも食卓を一緒に囲むことができる。
日本中の食材と掛け算ができるから、世界に日本食の魅力を届けることもできる。
おむすびを通して届けられることの可能性を感じている日々です。


関わってくださっている皆さんのお陰様で、本当に楽しくやりがいを持って仕事ができています。
初めての料理としておむすびを楽しそうに結んでいる子どもの姿を見たときや、
私の結んだおむすびをとても幸せそうに食べてくれる方の笑顔を見た時など
食の喜びを生み出せていることに気づかせてもらえて、涙が出そうなくらい嬉しくなります。
6年間の闘病生活は決して無駄な時間ではありませんでした。

「あのとき、乗り越えてくれてありがとう。
生きててくれてありがとう。
お陰で今、幸せだよ」

苦しんで苦しんで、生きてる価値がわからなかった頃の自分に
そう声をかけられるような生き方をしていたい。
それが、私を支え続けてくれた家族や友人への恩返しにもなれば、と願っています。

今、このnoteを読んでいる方にも、苦しい思いをしている方がいるかもしれません。
「私が大丈夫だったから」なんて簡単に言えないけど、
苦しい経験は、いつかきっと誰かへの優しさに変えられる日が来るはずです。

とっても長くなりましたが、
私のこの物語が、あなたにとって少しでも希望になれるのであれば嬉しいです。

いつか一緒におむすびを食べながら、お話しできる日を楽しみにしています。


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