すきな詩人がみんなおじさん〜時里二郎

心惹かれる詩人が、みんなおじさんという問題がぼくにはある。

おじさんがいけないわけではけっして、ない。ぼくだっていいおじさんだ。おじさんがいやじゃないってことはわかってほしい。誰に?

先日、といっても半年くらい前になるが、大阪の葉ね文庫さんに行った。葉ね文庫さんは詩人の西尾勝彦さんに教えてもらって訪れたのがはじめだ。ぼくは葉ね文庫さんでは目が合った本を連れて帰ることにしている。たくさんではなく、1冊か2冊。そのときばっちりと目が合ったのが現代詩文庫『時里二郎詩集』だった。ちょうど刊行日でもあった。不勉強ながらぼくは、時里二郎を知らなかった。ただ平置きされた表紙の言葉が胸を撃ち抜いた。

控えめに言って撃ち抜かれた。

植物図鑑の雨の中を 男は朝狩から帰還する
猟の身繕いのまま弓と胡簶を床に投げ出して仕留めた獲物を閲覧室の机に置く

時里二郎「朝狩」

植物図鑑の雨? 朝狩? 弓と胡簶だって? 獲物を閲覧室の机の上に?

すべてが衝撃であったが、なぜか言葉による詩情が浮かんでくる。
見たことないのに、見たことある。知らないはずなのに、知っている。既視感やなつかしさとはまた違う感覚にさいなまれた。
結局、ぼくは『時里二郎詩集』を迎えることにした。

それからぼくはその詩集をかぶりつくように読んだ。
時里二郎の世界に呑み込まれていった。これまでも良い詩には出会ってきたが、どちらというと詩とともに歩むというか、詩が寄り添ってくれるみたいな詩であったが、時里の詩はぼくを世界へと呑み込んでいった。詩がこんなにも物語をもっているものなのか。
ぼくの心を撃ち抜いた「朝狩」からはじまる『名井島』もよかったが、そこに至る散文詩もぼくを魅了した。散文詩をこれまでそんなに読んでこなかった。それに時里の世界はけっして平易でやわらかなものではない。それでもぼくはどんどん引き込まれていった。

読み終わって、ぼくがアンドロイドになってしまったんじゃなかろうか、なんて思う。

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