すきな詩人がみんなおじさん〜松下育男
すきな詩人がみんなおじさんという問題。
問題というわけではないのだが、たんなる偶然だとは思いたくない。どうしてか。
エックス(旧Twitter)にこんなポストがぽろりと転がり込んだ。
詩を書いていて、わたしはこの詩に幸せにしてもらおう、なんて、考えて詩を書きたくない。
ただこの詩の幸せのために、書いていたい。
この人と知り合って、わたしはこの人に幸せにしてもらおう、なんて、考えて人のそばにいたくない。
この人の幸せのために、なにができるかだけを考えていたい。
びりびりと、身体に稲妻がはしる感覚があった。
妻の顔が、子どもの顔が、愛するねずみの顔が、そして、何人かの親しい友人の顔が浮かんだ。
ブルデューによれば、稲妻がはしる感覚などほんとうはないということだが、その感覚はたしかにあった。あくまで感覚的に。
情報化社会において、少なからず名の知れた誰かについて調べることはそうむずかしいことではない。「松下育男」についても、検索するといくつかのことを知ることができた。
・福岡県出身であること
・H氏賞受賞者であること
・現代詩文庫にも入る詩人であること
・詩の教室や講演をさかんになさっていること
・1950年生まれ、今年65歳であること
またもや、おじさんである。
いや、いいんだけど。いいのだけれど、どうしてぼくはおじさんのことばにこうも心惹かれるのか。ぼくのなかのポエジーや、言葉の感覚はどうしてかそこと共鳴する。反対に若い人の詩にそこまでの共鳴はいまだない。
むろん、最果タヒはすきなんだけど。
というわけで、いそいで「現代詩文庫」を取り寄せて、読んだ。
ほんとうにせつなくなるのは
とても好きなものがそうでなくなる瞬間
そこにうすい膜がはりつめていて
それを通り抜ける瞬間なんだ
表紙のことばがぼくの心を打つ。ああずっとこの言葉を探していたんだというような感覚におちいる。ずっと好きでいたいから、ずっと好きでいたいのに、いずれ「うすい膜」を通り抜けることになる。そのとき、一瞬、せつなくなって、通り過ぎてから振り返ってぼくは何を思うのだろう。
このよで もっとも
やわらかいものを
にぎるときは
ゆっくりとちからを そのもののひょうめんに
つたえ
おしかえしてくる かすかな いきるちからを
うけいれながら
じぶんのほうへ すこし
しりぞくこと
なんだ
ああ、と感嘆の声がもれた。
いままで詩を書くなかで、詩はこうあったほうがいいんじゃないかなとか、こうあるべきなんだろうなとか思っていたいくつかのこと(それは自分でも正確には知覚できていないんだけれど)からすっと解放されたような気分になった。書きたい詩はこれだったんだと言わんばかりに。
また、詩が書けそうな気がしてきた。
つぎは、詩の幸せのために。