【エッセイ】悔しい
悔しい。
角川短歌賞が発表されてもう3ヶ月ほどが経つ。それでもまだ悔しい。短歌を始めたのは今年の3月のことだ。俵万智のNHK「プロフェッショナル」を観て、思い立って詠み始めた。僕はこれまでいくつもの詩を書いてきた。詩人に師事し、手作りの私家版だが詩集を2冊つくった。だが最近は特に詩を書けずにいた。どうしてか。胸のうちにポエジーを見つけることができても、なかなかポエムに仕立てることができない。表現したいのに表現できない。もどかしい日々を送っていた。そこに俵万智が舞い込んできた。
俵万智の短歌は前々から好きだった。彼女のエッセイや短歌は教科書にも登場するので、定期的に触れてもいた。彼女の作品を扱うたび、彼女の短歌に触れ、そのみずみずしい世界に身を委ねることを楽しんだ。文学論とか作品論とか難しいこと抜きで、彼女の作品が好きだった。「プロフェッショナル」で彼女が短歌を詠んでいく現場を観て、「もしかしたら、」と安易な考えが浮かんだ。試しに詠んでみた。詠めた。それは単に五七五七七の音律に言葉を嵌め込めたというだけのものではなく、自分の胸の中に浮かんだポエジーを作品という形で表すことができた喜びであった。
短歌も詩である。
ほんとうに久しぶりに作品が書けた。
それからというもの、僕は次々に短歌を詠んでいった。小さなポエジーから大きなものまで、逐一短歌という形に練り上げて表現した。僕には恋の歌も社会派の歌も詠めなかった。そのほとんどが日常の切り抜き。僕と妻と娘。家族の風景。
キッチンにはハイライトもウィスキーグラスもなかったが、洗いたてのお揃いのコップがあった。
娘を幼稚園に送っていくと、歌がひとつ出来た。
今まで見ていた景色が、一気に歌で彩られていく。短歌が僕の胸のうちから溢れた。コーヒーを飲みながら、空いたもう片方の手で指を折ることが楽しかった。また短歌を詠むことに確かな手応えも感じつつあった。5月を迎えるころ、僕が詠んだ歌はどれくらいあったろう。300首くらいあったんじゃないかな。
だから賞に応募することにした。角川短歌賞。短歌界の芥川賞と言われる文学賞である。50首連作ということで応募のハードルはかなり高かったが、溢れ出た短歌を編み直せばなんとかなりそうだった。50首を通したテーマは「父と子、そして妻」にした。俵万智に傾倒しているのだから恋の歌に憧れたが、今の僕には詠めなかった。僕のポエジーはあくまで「家族の風景」であった。
締め切り間近に編み上がった連作には『アカシアの花』と名付けた。
妻は最初の読者になってくれた。
賞に出したからには、結果が気になる。期待しないと口では言っても、やはり気になる。気にならない作品なら、ハナから応募なんてしない。待ちに待った『角川短歌』11月号。大賞は渡邊新月「楚樹」。入選はしていてほしかった。が、僕の連作のタイトルはどこにも見当たらなかった。
悔しい。
そりゃ当然だろという声が聞こえてきそうだが、やはりどこかで期待していた。それだけ創作に手応えを感じていた。楽しかったのだ。でも現実は甘くない。だからこそ賞。だからこそ角川短歌賞。良い歌が詠みたい。
でもやっぱり悔しかったんだ。
それだけは書き留めておきたかった。このエッセイの再開に際して。