若林奮『境川の氾濫』etc.
異貌の彫刻家・若林奮の名前を初めて知ったのも『宮川淳著作集I』でだった。そこには「見えるものの消去——あるいは無いモニュメント(若林奮の余白に)」という、宮川さん自身と若林さんのテクストを交互に織りなした奇妙な短いエッセー(《左側の黄色い水 III》という若林さんの彫刻作品についての事細かな言葉による素描)と、「閉じ込める」という若林さんと詩人・吉増剛造さんのコラボレーション作品《LIVRE-OBJECT》についての短文が収録されている。《LIVRE-OBJECT》については稿をあらためることとして、ここでは20代初めに出会った若林奮さんの作品と展覧会図録などについて記録しておきたい。
初めて若林さんの作品を実際に観たのは、彫刻ではなく、1984年の冬、銀座の「雅陶堂ギャラリー 」で開催された「所有・雰囲気・振動 NOTES」という、制作ノートに描かれた素描と写真とで構成された個展だった。素描とそこに添えられたメモ書きの奇妙さに、(芸術家はいったい何を思考しているのだろうか)とひどく動揺し、衝撃を受けた。
この40ページの図録には、それぞれ「岩の表面に鮭の尾鰭を刻んで、……」「東側の海に面して傾斜した大きな三角形が……」「綿が鉄の囲いの中を通って……」「視野の中で風景は広くて、……」という言葉で始まる4つのテクストも掲載されている。
▼岩の表面に鮭の尾鰭を刻んで、それを三角形が囲む。その隣りにある記号は象の頭部と重なる。魚の尾鰭は20本前後の線でつくった記号である。記号は尾鰭でなく、森林かもしれない。岸壁や、礫や、骨片にある刻線は、すでに膨大な量となっているのがわかった。それ等、数メートルから数百キロメートルの間にも、水と空気の境目に、岩山と空に、空気と水蒸気の接点に、多数の刻線が、2枚のガラス越しに認められていた。刻線は、岩や水の密度で屈折し、刻み目の深さはどれだけあるのかわからない。拾った平たい石の刻線は浅くて判然としないが、岩山と空にかけてつけられた方は深く、薄い草の葉が1枚ようやく入る間隙で割れている。地表から内部に入る亀裂は見過ごすことが多いが、それでもそれを知る手がかりはあった。それは、風景を切っていることもあり、ゆがめていることもある。
(メモ書き)
振動/所有/ /雰囲気
我々は燧石(=SILEX=FRINT)
の雰囲気の中に居た。
散在する燧石によって把握する.
一方は ずっと以前に割れ
他方は最近 破壊したと
思われる一個のSILEXを
手に持っていた。
SILEXを立方体∨の形に×××
割り、出来たくずは樹の
中にしまいこんだ.
「我々は燧石の雰囲気の中にいた」とは、どういうことだろう?
「散在」する「燧石」によって、何を「把握」するのか?
「所有」すること、掌に握った「燧石」の「振動」を?
▼燧石は、非常に硬質な玉髄質石英から成る岩石の一種。硬質にもかかわらず加工しやすく、石器時代には世界遺産スピエンヌの燧石鉱山に見られるように石器の材料として使用され、鉄器時代以降は火打石として利用された。モース硬度6〜7。日本の地質学界では「フリント」という語を使用することは稀れで、成因的には続成作用の過程で生成された二次的濃集沈殿岩なので「珪質ノジュール」と呼ばれることが多い。
——「Google Arts & Culture」の文章を改変。
「燧石」の「雰囲気」とは、「硬さ」?
その「硬さ」の中で、「燧石」を「立方体」に割り、できた屑は「樹」の中にしまいこむ? いったいどういうことだろう。
鮭の尾鰭
将来 草のはえる五層
下層
下から上へ層をつくる厚みは目に見え
る様になって理解し得る。自分が見るの
は常に地表にある草の一群だけで
あった。
大気中にある草の葉を一枚入れることの
出来る薄いすき間
ここに?更に高い
↑?位置
大気中にある鮭の反映
/高低の広
→い巾を持っ
た空中の位置
//////
//////
→この位置
→1735の高さ
此の表面
もっとも不可視的
不明瞭である地表面
のわずかに下部
この位置//////
→///この位置////
鮭(過去における)
なんとも奇妙で不思議な素描とメモ書き——。
何をどう、思考されているのだろう。
でも、なぜか惹きつけられてしまう。
この個展を観た後になってから、同じ「雅陶堂ギャラリー 」発行の『境川の氾濫』という若林さんの本があることを知った(?)。どうしても手に入れたくて、緊張しつつギャラリーに電話——「若林奮さんの『境川(きょうせん)の氾濫』という本ですが、そちらにまだ在庫はありますか?」「ああ、『境川(さかいがわ)の氾濫』ね、ありますよ」——「境川(さかいがわ)」が東京と神奈川を流れる実際の河川だとはつゆ知らず、恥ずかしい思いをした。本の代金は郵便振り込みしたのか、現金書留で送ったのか覚えがないが、本は今も手許に大切に持っている。
奥付のページに▼「この本は1980年8月25日から9月6日まで雅陶堂ギャラリーに於いて展示発表された40点の素描に、1979—80年にわたり書きとめられた6篇の作者小文を加えて一冊にまとめられた。500部製作」とある。
▼週三回坐る場所がある。そこから右側の窓を開いて空地を見ることが出来た。同じ構造の二棟の建物の外壁に囲まれた,通路状の細長い空地の一部を,これ迄,くり返し眺めてきた。二つの建物の外壁だけでなく,時には上方に空をさえぎって壁がつけられることもあった。中央に長く敷きつめられたコンクリート板をはさんで前後の土には,5種類以上の植物が成長しつつあるのには,すでに気付いていたことだが,気温が33度を越えた頃,その中で数十本はある緑白色の葉と茎に,粉末銅赤色の花をつけた植物が空地を支配した。……
見えるものを正確に事細かく言葉で素描してゆこうとする文章だろうが、読み手としてはなぜだかどんどんとわけのわからない迷路の深みへさまよい入るような気分になってゆく。この文章の冒頭で触れた「見えるものの消去——あるいは無いモニュメント(若林奮の余白に)」という宮川淳さんの文章もそうだった。でも、なぜかめまいのようなものとともに惹きつけられてゆく、不思議なテクスト。こんな文章が書けたら……、書きたい、と思う。詩人の関口涼子さんが、若林さんの文章に魅せられて、フランス語に翻訳し、また日本語に翻訳し戻し、という実験をされていたと、どこかに書かれていたと思う。私も外国語ができれば、そんな実験をしてみたいが……。
今、思い出したのだが、若林さんの鉛筆素描作品《境川の氾濫》を初めて見たのは、1978年10月発行の現代詩手帖10月臨時増刊『ブランショ』特集でだった。この本では表紙・裏表紙と本文カットに中西夏之さんの素描、巻頭に加納光於さんの版画《『B』—その雲形の》とともに、若林さんの《境川の氾濫—M・Blanchotについて》が掲載されていた。1978年、私がまだ18歳の頃には、「現代詩手帖」も「モーリス・ブランショ」も知らなかったので、この本は20歳で『宮川淳著作集』に出会ってから、池袋西武の中にあった「ぽえむぱろーる」で購入したものだろう。とすると雅陶堂ギャラリーに電話をして『境川の氾濫』(1982年)を入手したのは、同ギャラリー での個展「所有・雰囲気・振動 NOTES」(1984年)を観るよりも前だったのかもしれない。ともあれ、この現代詩手帖『ブランショ』特集号(1978年)によって、中西夏之、加納光於、若林奮、三氏の名前が刷り込まれ、以後、展覧会に足を運ぶようになった。
そして初めて、若林さんの彫刻作品を実際に観たのは、1990年2月から4月にかけて町田市立国際版画美術館で開催された「若林奮 版画・素描・彫刻展」でのことだった。その頃のことについては、また稿をあらためて。
若林奮さんの本『境川の氾濫』は、今でも「きょうせんのはんらん」と呼んでいる。