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群馬県立近代美術館ライトアップ


高崎市の「群馬の森」という公園に建つ群馬県立近代美術館は、ちょうど50年前の今日、1974年10月17日に開館したそうだ。50周年を記念して、10月12日(土)から20日(日)までの夕方5時から6時半まで、RGB BUILDING WORKSHOP(臼井敬太郎+八木健太郎)の企画・設計による建築のライティング・プロジェクト「BUILDING DIGNITY」が開催されているというので、出かけてきた。


青赤緑によるライトアップ


青赤緑によるライトアップ


青赤緑によるライトアップ


群馬県立近代美術館の設計は、一昨年(2022年)の暮れに、91歳で亡くなられた建築家の磯崎新さん。磯崎さんは1931(昭和6)年、九州大分のお生まれなので、1974年当時は、43歳。同館の建築により、翌1975年には日本建築学会賞を受賞された。同館では、10月12日(土)から11月10日(日)まで、「アーティスティックGUNMA 2024 群馬県立近代美術館の建築をたのしもう! ~建築家磯崎新が遺したもの~」という企画を入場無料で開催している。


チラシ表


チラシ裏

会期中、記念講演会やコンサートもあるようなので、ぜひもう一度、足を運びたい。


磯崎新さんの名前を初めて知ったのは、20歳の時に読み始めた『宮川淳著作集 I』に、挟み込まれていた著作集全3巻を紹介するリーフレットでだった。


宮川淳著作集全3巻 美術出版社 リーフレット


同リーフレットに寄せられた磯崎新さんや坂部恵さんらの言葉
群馬県出身の金井美恵子さんの言葉も


宮川淳の〈本〉――磯崎新(建築家)

▼一冊の〈本〉について話したことがあった。“最初は、おそらく一冊の分量にはなるんだけれど、それを削っていくと、あとには何も残らないかも知れないなあ。”と宮川淳はいったりした。活字にして、厚みをもたせ、綴じ合わせないと商品価値のうまれない今日の流通機構への徹底抗戦の構えであった、と考えられる。
“自分だけに所属する言葉なんてないんだから、他人の文章だけで、一冊の本ができますね。”ともいった。そして彼が引用のコラージュをつくると、不思議にその原文とは違ってみえる。そのメカニズムの秘密を、私たちはいま読みとる必要に迫られている。
近代が生みだした芸術という概念が、意外にも脆弱なものであることを、宮川淳は皮肉な手続きによって証明しようとしたのではないか。巨大な構築物であっても、その構成要素をつなぐジョイントをはずせば、たあいもなく崩壊する。大鉈をふるってたちむかうといったぶざまなさはなく、人知れず、秘密の閂をはずしてみせる、その手法が発見され、方法化された。ミニマルアートをみるようなあっけなさだが、その最小限への還元には、信じられない程の力業がかくされている。


“巨大な構築物の構成要素をつなぐジョイント”をさりげない手つきで外すことなど決してできない立場の建築家・磯崎新さんの原点は、しかし、“青空”と“空虚”だった。

▼1945年8月15日、日本列島は雲ひとつない抜けるような青空だった。一瞬の空虚を私は体験した。その後つづけた私の迷走は旋回して、いつもあの瞬間の空虚としての青空に戻っていく。
——『空間へ』河出文庫、2017年、「文庫版あとがき」

宮川淳さんは1933(昭和8)年、東京生まれ(5年前に亡くなった私の父と同い年)。敗戦の年、磯崎さんは14歳、宮川さんは12歳だった。その後、磯崎さんは建築へ向かわれ、建築の基盤に「廃墟論」を、宮川さんは美術批評へ向かわれ、書くことの基盤に「引用論」を、それぞれに違うフィールドで紡がれながら、互いに共鳴されてあったのだろう。この時代の生まれの人たちは、ほんとうに凄い。武満徹さんも1930(昭和5)年、東京生まれで、当時15歳。

群馬県立近代美術館は、半世紀を経て、“ジョイント”は一つも外れてはおらず、“廃墟”へとは向かっていない。——宮川淳さんが、磯崎新さんに言う。——「残ってるね」。——「ある意味、君のテクストと同じでね、これ以上、削りようもないからね」。——「そうだね」。


群馬での磯崎さんの建築には、渋川市の「Hara Museum ARC」もある。この建物の木材は、兵庫県から搬入されたと聞いた。もう30年近く前、この美術館前の緑の広場で、夕方、舞踏家で俳優の田中泯さんが、グスタフ・マーラーの交響曲が響く中、舞われたことを思い出している。



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