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写真集《KOBE/1995.3.》
1995(平成7)年1月17日(火曜日)朝、日本中が震撼した。
阪神・淡路大震災、マグニチュード7.3——。
未曾有の大地震とそれに伴う大火災が神戸の街を襲う。
あの朝、当時、勤めていた群馬県版を発行する新聞社に出社後、鉛色の噴煙が幾つも立ち昇る街の空撮映像を流す一台のテレビを、編集長・先輩・同僚と共に固唾を呑んで見つめていた——。その後、一日をどう過ごしたのか、全く記憶がない。
私は兵庫県の田舎の生まれで、母方の叔母二人が神戸市長田区と明石市に居住しており罹災した。母は心配して何度か電話をかけていたが繋がらなかった。神戸から直線距離で約70km離れた郷里でも震度5を記録したというから、相当な揺れだっただろう。
3月中旬になり、住んでいた借家が半壊した長田区の叔母を両親とともに訪ねた。一時期、近所の小学校の避難所で暮らしたという叔母家族は、元の借家の近くにある別の借家に移っていた。
焦土と化した長田区の街をぼとぼとと歩きながら、時折、カメラのシャッターを切った。運行を開始していたバスに乗り叔母と二人、無残な風景の中、うねうねと揺られさまようように三宮まで行った。行った記憶は今でも鮮明にあるのに、どうやって戻ったのか、まるで記憶がない。
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12枚目の「『生活情報』配布中です。情報満載!」と手書きしたゼッケンをつけた青年たちの後ろ姿を撮った後、もう写真撮影はやめにした。
当時、勤めていた新聞社では、取材で撮影した写真は全て、社の暗室で自ら現像していたから、これらの写真もその暗室を借りて現像した。これはわずかに12葉の写真を、紙で束ねただけの写真集だが、一応、noteのマガジン「手製本のこと」に収めておく。
その長田区の叔母の借家での朝だったか、明石の叔母のアパートでの朝だったか、もう記憶は定かではないが、1995年3月20日(月曜日)の朝、「地下鉄サリン事件」で動転する東京のニュースをテレビで見たのだった。1995年、災厄の年——。
あれから30年——。「災害は忘れたころにやって来る」とは、物理学者で随筆家でもある寺田寅彦さんの言葉だというが、この30年、どれほどの辛酸を日本列島は舐めてきたことだろう——。もはや災害は「忘れたころに」どころか、「舌の根も乾かぬうちに」やって来る。日本列島は「暴れ龍」の背中に乗っている。
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(水声社、2024年12月10第1版第1刷発行)
小林康夫さんの近著『きみ自身のアートへ』(水声社、2024年12月10第1版第1刷発行)を息子から借りて読み始めると、次のような記述▼と自己引用◉があった。
▼自分自身の過去のテクストを読み返しつつここまで書いてきて、今朝(2024年2月)、ひとつの奇妙な考えがわたしに堕ちてきました。突拍子もない乱暴な考えだが、それが取り憑いて離れない。ならば、ままよ、付録的にここに書きつけてしまおおうか。/それが堕ちてきたのは、わたしのこの論述の中核概念である「カタストロフィー」という言葉をどのように一般化することができるのか、と考えていたとき。つまり、この言葉は、ふつうは、地震、津波、噴火、戦争、テロ、疫病、恐怖、不況、虐殺……といった極限的な非常事態について言われるのであって、毎日、それなりの日常を生きているわれわれのそれぞれの「生活」に対応するものではない。だが、わたしはここで、日常的なその「存在」のあり方そのものが、本質的にカタストロフィックであるという方向へ思考を進めようとしている。/と書いて、そう言えば、私の戦後文化論の第二巻は『日常非常、迷宮の時代 1970-1995』というタイトルだった! すなわち、「日常」は「非常」と表裏一体!……となって、あわててその本を取り出してみる。すると、やっぱりと言うべきか、オペラ仕立てになっている戦後文化論の最後の「フィナーレ」で、1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件を踏まえつつ、わたしは次のように書きつけていたのです。
◉ひとつの時代が終わったが、「新しい時代」がはじまったわけではないというその「余白の時代」、いや、「〈時代〉の余白」に、文化の内部からではなく、その「外部」から、もうひとつの——次のように言ってはいけないだろうか?——「不可能な時代」が重ねあわされてくる。われわれは「2020年」という標識に示される「いま」においても、この「祝祭(カタストロフィー)」の「時代」を生きているのだ。
▼しかも、この直後に、「だが、もうひとつ、この『1995』という標識が指示する、いまもいっそう過激に進行中の巨大な変化のはじまりがある」と述べて、わたしは、Windows 95の発売を歴史的なメルクマールにして、人間の文化が「情報化」という未曾有の「時代」へと突入したことに言及している。
◉われわれとしては「1995」という年を「カタストロフィー」と「情報」というもはやヒューマン的ではない二つの巨大次元が起動する「人間ではないもの」の「時代」がはじまったことをマークできれば、それでいい。「祝祭(カタストロフィー)」/情報/だろうか/日々/だろうか」——ヒューマン的なものが、もはやヒューマン的ではないものとはげしくぶつかる、まさに「カオス」の時代がはじまった、と戯画的に言い放っておくとしよう。
▼まさにこの延長にこそ、今朝のまさに戯画的な「突拍子もない乱暴な考え」が堕ちてきたのです。というのも、それは、誰もが日々、スマートフォンを通してアクセスしゲットしているきわめて多様な膨大な情報の群、それは、ある意味では、わたしが南三陸・気仙沼・陸前高田で見た「瓦礫、残骸、廃墟、屑」と同じようなものなのではないか、世界の多様な断片が統一的な秩序なく寄せ集められただけの瓦礫的世界なのではないか、という詩的な妄想だったのです。
確かに、日常は非常と表裏一体であり、日常的な私たちの「存在」のあり方そのものが、本質的にカタストロフィックである、かもしれない。合成と分解を繰り返す生命活動そのものが、一面では、カタストロフィーを孕んでいる、とも言えるかもしれない。
▼となれば、この激しいカタストロフィーの時代を、アートという活動領域とかかわることを通して自己形成しつつ生きていこうと考えている若い君に、わたしがなにをいえるか、
それがこの本『君自身のアートへ』のテーマであり、この日常=非常の本質的にカタストロフィーを孕む「生」をどのように「生きる」か、それが私たちの課題であるだろう。
ともあれ、あのときの神戸の惨状を撮影した数葉と幾葉かの「希望」の写真をnoteに記録として残しておく。忘れないまま忘れないために。