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「鶺鴒一册」10
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北へ/S.T.と/S.T.の/
/青い乳漿論(galactique)の/
/透ける薄葉をめくり/めぐり
akirakeshi, 青の質料(ヒュレー)に/
/hitasareru, 浸される/
/感潮河川の/環境勾配
(鶺鴒の尾搏きで/鼓膜の縁に/脈を測り)
干潟へと消息する/
/青脚鷸が艤装を解く/
/青い乳漿論(galactique)の/
/樹牆的な癒着系
(鶺鴒の運針で/網膜の縁に/星を縢(かが)り)
離乳=傾瀉への唇(ふるえ)があり/
/繋辞の辯が釋(す)てられる/
/すべてを青/
/青(に)/
/青に孵(かえ)す青まで/
/(さながら)
(鶺鴒の素速く淺い羽搏き-尾搏き 幾重にも錯綜する cathexis/息をつめた指声で ふたたびみたび(翻り 翻りつつ)翻す decathexis)
これは1991年に友人の詩人・SSW(singer-songwriter)の川畑battie克行氏と二人で結成したArt Club「ブレスコンテンポラール(ブレコン)」の会報『魴鮄1』に掲載した「青い乳漿論 瀧口修造に」という詩の一葉が原形となっている。『魴鮄1』は当時、愛用していたワープロ「書院」で文字入力し、B4用紙に印刷、左端を紐で綴じ、二つ折りにした冊子。
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会報 『魴鮄1』の表紙
1991年5月12日発行
(綴じ紐は外してある)
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記念すべきArt Club「ブレコン」の初活動は、1991年1月11日(私の31歳の誕生日)、東京池袋から夜行バスに乗り、富山へ。富山県立近代美術館で瀧口修造さんの作品を観ることが主目的だった。若いスキー客で賑わうバス、うつらうつらしただけで、朝5時50分、終点富山駅に到着。美術館の開館までにはかなり時間がある。それじゃあ瀧口さんの生家を探そうという話になり、川畑氏がキヨスクで購入した富山県地図を頼りに、婦負郡(ねいぐん)寒江村(さぶえむら)があったと思しき呉羽(くれは)駅へ。庭木を冬囲いした民家の並びを抜け、雪景色の水田を見ながら当て所なく歩き、小学校を見つける。突然訪ねていった小学校の職員室で、瀧口さんをご存知の先生から、瀧口さんのお墓のある寺の場所を教わった。このArt Club「ブレコン」初活動の記録は、会報『魴鮄1』掲載の川畑氏の文章「瀧口修造表敬ツアー」に詳しく書かれているので、いずれ川畑氏の許可を得て、noteで公開することとして……。
ここでは会報『魴鮄1』に掲載した「青い乳漿論 瀧口修造に」という詩の一葉と、「瀧口修造のデカルコマニーに関する短いメモ および注」という散文を掲載しておこう。
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Akirakësi、青の質料(ヒュレー)。
遊戯にちかくうすめる水。 灌漑の遊びか通約?
hitasareru、函(ひた)される、
感潮河川の感情価。 箋注に関する薄さである。
《私の心臓は時を刻む》
干潟へと消息する、 青脚鷸が艤装を解く。
青い乳漿論(galactique)。 樹牆的な癒着系。
セキレイの運針で《星》をかがり、
離乳=傾吐への唇えがある。 開けば戀は声をうしなう。
青い梁や砂嘴。 灌注する? その爽約。
離乳=傾瀉の爾後、繋辞の辯が釋(す)てられる。
すべてを青に孵すまで、 さながら。
これが15年の歳月を経て「鶺鴒一册」の一葉となった。感慨深い。
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瀧口修造のデカルコマニーに関する短いメモ および注
《STALACTITE CAVE》だろうか、青い石柱や石筍?/《さながら血管樹におおわれた雷雲よ†》/黒雲母の劈開面に揺れる虹?――瀧口修造のデカルコマニー連作100展《私の心臓は時を刻む†》のうちの数点を、富山県立近代美術館で眺めていた。それは「夜明けの眺め」だったろうか。言葉を攫う、あれら《魔法の井戸》——
†瀧口修造への様々なオマージュがあつめられた『雷鳴の頸飾り』(書肆山田)の中の、加納光於の版画作品タイトル。——瀧口修造のデカルコマニーを眺めながら、言葉の貧血を感じる。さながら「血管樹」とでもつぶやくほかないような。しかしそれはけしてそれらが言葉を拒み締め出しているというわけではなく、むしろそこには無数に言葉が重ね書きされていて、そうした言葉の備給cathexisを、再び言葉で奪取decathexisすることが困難なのだと思える。
†それらは20ずつ5つのパートに分けられ、それぞれ「わたしにさわってはいけない」/「孤独の起源」/「マチアス・グリューネウァルトの幽霊」/「わたしを見よ!」/「巣立つスフィンクス」と題される。――タイトルとイマージュだけの詩画集と呼べるだろうか。
1935年頃シュルレアリスムの画家オスカール・ドミンゲスが実験-発表したデカルコマニーという手法は、水撥性をもつガラス板やアート紙などに水彩絵具やグアーシュを塗り、別紙を重ね合わせて剝すとき、あるいは紙を折り合わせて開くとき、あらかじめ意識されない不可測の形象が生み出されるというもの。そこで《私》がその形象の生成に手を藉すことができるとすれば、それは絵具の載せ方と、重ね-折り合わせたときの押さえ方、剝す-開くときの意識的-無意識的な「躊躇」によるのみだといえるだろう。ほとんどオートマティクといえるこの手法は、したがって「誰にでも出来る」ものであるだろうが、しかしそのオートマティスムゆえに出来たものが「どんなものでもいい」というわけではない。このような矛盾をどう考えればよいだろう。「誰にでも出来る」方法で出来たものが「どんなものでもいい」というわけではないとしたら……。
「見る人がそこにどのような幻や像を眺めようと、すべては物理や化学のなせるわざであり、私は一個の介在者であるにすぎません。」†
†1971年11月、新宿のスナックバー「セバスチャン」での個展の「口上」より。だがこれはけして謙遜ではなく、自覚であり、決意であるというべきだろう。
つねに《あいだ》に身を処すること——そして、デカルコマニーというこの手法が形象を生み出すのは、まさにこの《あいだ》で(に)なのである。《あいだ》とはまた「揺らぎ」の空間なのだ。その《あいだ》(で)の「揺らぎ」こそが形象を生むのだといえるだろう。そのような「揺らぎ」に身を曝すこと、しかも揺らぎなく醒めながら……——夢と覚醒のあわいの振幅を、言葉によって着生しようとしたシュルレアリスムの自動筆記と同じように——ここに身を処することは、だがほとんど不可能だともいえないだろうか。
銅錢と白薔薇とが協和音を構成するとつばさのある睡眠がさけびだす。 そのなかには異常に青い草が繁茂する地方へ跳ねやる虹のように強靭な弾條がある。 田舎は土龍のように美しいがその寒さにおののく掌は正確なので顔を蔽うのに充分な引力を提供する。 すべての音を発する物質と同じにあの睡眠も意志に属していたのかしら? そこから脳髄が月のように細密な脳髄が見える。
『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』ÉTAMINES NARRATIVES
このような言語空間-言語的形象を成立させているのと同じ《磁力》が、あれらデカルコマニーによる形象が生まれる《あいだ》にも発生しているのではないだろうか。その《磁力》の発生は、なによりもまず《私》の《分裂》を前提とする。
「つまり、私としてはどうにも発言しようのないものが、依然として私の内部に堅い固体のように突っぱっているからです。あれらの永続しえない、非文学的な小持続がふたたび活字にとどめられることに私は戸惑いながら、いまの私はやはり可能と不可能のあいだの名状し難い混沌のなかに立たされているのを感じます。もちろん風は死を装っているし、旅程はずいぶん長いのです。そして私のなかには、あの真空からきたらしい宿なし幽霊どもがうごめいていますが、私はもう意に介さないでしょう。」†
†「現代詩手帖」1968年1月号初出、「大岡信との往復書簡」より。のちに大岡信『ミクロコスモス瀧口修造』(みすず書房)に収録。
瀧口修造にとっては、《あいだ》とはすなわち《間、ま、魔》に通じる。
「私がふとしたことから、絵といってよいか、ともかくもえがく領域の端くれに手をつけだしたのは、「絵というもの」がそこにあるからではない。文字魔のいるところをつきとめたいという要求のめぐってきた一つの結果にすぎないといったら飛躍しすぎるだろうか。ところで、いったん手をつけるや否や、そこでは別の魔が顔をちらつかせる。絵の魔である。その上、さまざまな現象の鬼たちである。」†
†「絵の魔——集団アルファの友たちに——」(『余白に書く』I 所収)より。吉仲太造の参加するグループ展「第三回集団アルファ展」に寄せられた(1963年)。——1984年、瀧口修造の死後7年を経て描かれた吉仲氏の瀧口修造へのオマージュ『不在』は、「壁に掛かった帽子とステッキ、机の上には眼鏡。それだけしか描かれていない」白い絵だった。それは「まず、キャンバスにナイフで白い絵の具を一面に塗り付ける。それが乾いた後、ナイフで同じ白い絵の具を盛り上げ、もののかたちを作る。完全に乾かしたのち、画面全体を黒い絵の具で塗り潰すのである。そのあと、溶剤を含ませた布で慎重に黒だけを拭きとってゆく。するとナイフで盛り上げた輪郭の狭間に、黒い絵の具が染みついてのこる。こうした複雑で独特の手法を経て、白い絵画は制作される。」というものだったという。——光田由里「吉仲太造作「不在」(1981)について」季刊美術批評誌『非』vol.3 1989 夏号「瀧口修造特集」より。——それはすぐれてマラルメ的な手法だといえないだろうか。そして私たちが、漆黒の闇に黒い文字で書かれた瀧口修造の『地球創造説』を開くとき、それは斜めから差す《光》となってくれるのではないだろうか。cathexis、decathexis。
だがそれらを「もう意に介さない」とすれば、そのときではないだろうか、《私》が《間》であり《魔》でもある場処が、開かれる。
Art Club「ブレスコンテンポラール」の会報『魴鮄1』の全容については、川畑氏と相談の上、いずれ別稿にて。