Pas-sage 2
1990年、30歳の頃、懐かしのワープロ、Sharpの「書院」で制作していた個人誌(Vol. 3で終了)。A4に両面コピーし、左をホチキスでとめて2つ折りしただけの簡単なもので、5部ほど作って友人に郵送していた。「手製本」とはいえないけれど、一応、手づりではあるので、noteのマガジン「手製本」にアップするために、テキストエディット で入力し直して、データ化しておこう。
《Pas-sage 2》は、1990年3月3日(土)~4月5日(木)の期間、兵庫県の姫路市立美術館で開催された《ポール・デルボー展》を見たことから、『月震の夜 および 三姉妹の消息』という作品を書き、それを掲載している。
月震の夜 1
月理潮汐学者オットー・リーデンブロック博士(彼はまた時計技師でもある)は、その近著『月齢と潮汐関聯および月震の午後』に於いて、「月は月に二度震え、潮は月に二度差し違(たが)う。——ちょうど私の未熟さ故に、私の時計の秒針が、月に二度引き攣るように。」と指摘した。月例定期検眼で、博士は常にhemeralopia(昼盲症)と診断される。「感情潮汐の日潮不等は月の赤緯の勾配に依る。勾配が最大なれば一回潮となる。このとき月は震撼する。否、月震の午後、感情潮汐の……、一回潮となる。——時に私の時計は14時を指す、それは私の熟練の故。」
「周期性眼球震顫」、「月性リューマチ」等々と、人々は博士を噂した。
オットー・リーデンブロック博士は氈帽(フェルト)を被る。アイスランド西海岸スネッフェル山麓にて採取せり漂礫の鑑定を、養女ゼレニートの夫、ノルトゥンブリア(イングランド北部)出身の記載岩石学者ガザリウス博士に依頼した。オットー・リーデンブロック博士には、その黄水晶のように輝く漂礫が「月屑」ではないかと予感された。——これがもしも、「月屑」であったなら、(月理潮汐理論的には)この上なく精確な時計のための、それは燧石となるだろう——と、オットー博士は夢想した。
代赭石の凍てる蒼(あお)い扉外で、半月が蓬髪を梳(す)いている。
三姉妹の消息 1
「接骨木(にわとこ)の髄」ゼレニート
破瓜(はか)期と呼ばれる年頃には、女性なら誰しもそうしたものです。接骨木(にわとこ)の髄を耳の孔に詰め、その上に蜜ろうでぴったり蓋をして、わたしたちは耳を喪(うしな)い、のどもとの葡萄をゆっくりと嚥下して、わたしたちは声を喪い、一緒に戀を喪いました。姉のポーリーヌもそうでした。そして妹のクリジスも。
デルボー画伯の掌(たなごころ)に、わたしたちは幽閉されているのです。デルボー画伯は女を《囲う》。
耳奥深く、水オルガンのくぐもりが残っています。
以来、わたしはわたしのまなさきで、《薔薇(バラ)色の蝶結び les noeudes roses》を結んでは、ほどき、結んでは、ほどき、しています。
わたしたちになんの不倖せがあるでしょう。
月震の夜 2
おお、これは、Springwaterの飛沫だろうか? かの確認されし最初の隕石、パラサイト中の橄欖石結晶。
黄斑斜性が認められる。
いやこれは、おお、羚羊(ガゼル)の瞳。
デモクリトスの井戸より深く、
我が最愛のクリジスの、きみの瞳孔に潜む新月。
新井(さらい)のようにそこだけが、深く燐光を沈める
id
——それは素性を隠すため、あるいはそれを曝すため、ガザリウス博士は長いフロックコートを着て、携帯顕微鏡を覗いたまま、
咽喉(のど)に鶫(つぐみ)を詰まらせる。
オットー「範疇素性はいかがだろうか? それが分かればあとの素性は叩けば分かる。
「いや、鉄鎚ではなく木槌でだが。音素数列の孫係数が、感潮指数に一致すれば、
「厳密下位範疇化素性までは…
……「燃焼臭気から察するに、アルコールランプであるでしょう。
……「法曹界では「密生醜態」と呼ぶのだがね。
……「扁桃摘出時の出血の多少が、月齢位相と関係のあることをみいだしたのは、
三姉妹の消息 2
「海浜の扉から」ポーリーヌ
初潮からふたたび潮のない海浜で、Indigofera tinctoriaの目の瞬きもなく微笑み、潮のない海に耳を澄ますことももう…、あきらめもなく18歳で髪を結(ゆ)ったまま、空は海よりも青を濃く懼(おそ)れて、わたしの肌を染めもしますが、わたしの品性に懼(おそ)れはなく、両脚を揃え、てのひらを添え、清貧に、くちもとやわらかく、風のない時が鼻孔からつま先へさがってゆく海浜で、Indigofera tinctoriaの目に潮もなく齢(よはい)もあってなく、わたしは晒(さら)され晒(さら)されもせず蔽われ蔽われもせず、樹木は並び茂り、砂浜に書かれた声は初めての引潮で攫(さら)われて、わたしはこの砂浜にさらにふたたび眼差しで声を残すこともなく、扉は開き、わずかに色濃く時を罩(こ)める。初潮からふたたび潮のない海浜で、扉は開き、時を罩め、攫(さら)われず残る《P. DELVAUX》の白い署名とわたし。
月震の夜 3
ガザリウスのstanceは、私(デルボー)に暫定的道徳のための第三格率「私たちの欲望を変えるより、世界の秩序を変えるほうが易しい」。
1834年の夏の宵、巡回裁判官だった曽祖父の書斎の薔薇窓から、私(ガザリウス)は初めて望遠鏡に月の夜明けを覗いたはずだ。俯角40度21分7秒。《ダイアナがアポロの襟飾りの皺(しわ)伸ばす火熨斗》。闇い月径をアポロが黄金の車駕で巡り寄る時、我が月人(ゼレニート)ダイアナは、火熨斗の中に熾火を入れる。「漆黒の中に突然、火の蛇のようなものが描きだされたかと思うと、それが輪になって…、まるで影の戴く焔の冠のようなものが、つぎつぎと輝きだし…、ついには、一面の黄金、深紅、ルビーの雪崩、焔の流れとなって…」と、私は懐中手帳に記したはずだ。翌朝の食卓で、私は父から、あの「焔の冠」が「クレーター」と呼ばれること、月表北東にあるクレーターのひとつはその名を「夢の湖」と言うと教わったはずだ。私は温めた牛乳の皮膜を見つめながら、「まったく無視された作品が突如として脚光を浴び、天才を告げるドラマ、詩人や思想家たちを訪れる夢や彼らの抱く夢想が暗い内部から汲みあげられながら、やがてみごとに開花する」、そのような小説を想描したはずだ。その後、だが、私は小説を書くのではなく、岩石を書いている。そしてクリジスを愛している。花飾りの麦藁帽に、毛皮(ミンク)がはだけるゼレニートより。
「私の欲望を変えるより、世界の秩序を変えること。」
三姉妹の消息 3
「待避駅ホームで」クリジス
蒼(あお)く闇の罩(こ)める月の刈られた宵(よい)には、銀製の手燭を右手に、わたしは未婚の寡婦として盲いて、待避駅3番ホームに立ちます。
わたしの薄いチュニックは花嫁衣裳、ポーリーヌ姉さんからの譲り物。鴇(トキ)色の肌は画伯からの。
まぶたに淡い月暈が浮かびます。
待つことが、ただそれだけのわたしの無為。それはふたりの姉たちにとっても。
「誰を」という過ちもなく待つことが、営みの喪失(うしない)、ここでこうして生きることの、わたしたちのさ迷い。
膝のお皿は揃えたまま。月暈がまぶたにおぼろです。
待つこと、わたしたち女だけの蜜月。
《Pas-sage 2》了
この展覧会は大阪会場を皮切りに、京都、東京、姫路、横浜へと巡回した。東京会場は新宿の「伊勢丹美術館」。デルボーの絵画を「能」に結びつけるとは、突飛すぎないかと、記事を改めて読むと、——▼「1989年、デルボーの母国ベルギーでは、能楽の上演と能面などの展示を一つの頂点とする日本の総合芸術祭『ユーロパリア・ジャパン』がほぼ全土にわたり展開された。それに呼応して、デルボー展が日本にやってきたのである。事前にベルギーでこの人に会ったとき、92歳の巨匠は「日本で私の作品が歓迎されることに、感激しています」と、不自由になった目を見開きながら、こうも話した。「初公開の絵でも神秘的な雰囲気と官能的な特色は、きっと気に入っていただけるだろうと思っています」。(吉村 良夫記者)
なるほど、そういう経緯があったのか。
ポール・デルボーというベルギーの不思議な画家のことを知ったのは、浅田彰さんの『ヘルメスの音楽』という美しい本からだった。グレン・グールド、ブーレーズ、ジョン・ケージなど音楽家をめぐるエッセーにつづけて、「デルボー あらゆる終りのあと永遠の黄昏(クレピュスキュル)の中にたたずむ」という詩が、デルボー作《海は近い La mer est proche》(1965年)など4点のカラー写真とともに掲載されている。「crépuscule(クレピュスキュル)」という言葉を何度、反芻したことだろう。この機会に、およそ40年ぶりに読み返そう。若き浅田さんの「うねりとビート、反復と差異のリズム」(千葉雅也『センスの哲学』参照)をもう一度、体感しよう。