『AIAI(アイアイ)傘』
山下は一週間分の食材を買いにいつものショッピングモールをぶらぶらしていた。梅雨時という事で、中央の特設スペースでは傘が販売されている。そういえばこの間ビニール傘、どこかに置いてきちゃったな。ちょっと見ていこうかと、山下は足を止めた。
その傘売り場で、珍しく人だかりになっている一本の傘があった。なんと、一本10万円の値札が付いている。10万円の傘は山下も初めて見る。取っ手が真鍮だとか、布が高価なレースとか、そういったものではなく、見たところ何の変哲もない無地の濃紺の傘だ。コンビニで1000円で売っている。これのどこが10万円というのだ、特に有名な海外ブランドでもないのに。値段の横にはキャッチコピー。
『AIAI傘で雨の日はパラダイス!』
ねえ、これどういう意味なの?とおばちゃん達が店員に詰め寄っているが、店員もわからないのか煮え切らない対応だ。
山下はドキリとした。なぜか見た瞬間からこの傘に異常なまでに惹かれている。野次馬たちに囲まれて奇異な目で見られているその傘が不憫だとまで感じる。この場から救い出さなければ。その妙な使命感は一体どこから来るのか… と考える前に山下はその傘に手を伸ばしていた。
「これ、ください」
その傘を手に入れてから、山下の生活は見違えるように明るいものとなった、特に雨の日は。前の晩の天気予報が雨だと、翌日の事を考えて夜も眠れないくらい興奮した。明日は誰とこの傘で雨の中を歩こうか。
AIAI傘をさすとその時望んだ相手が一緒に傘に入って隣で歩いてくれる。まさに謳い文句の通りパラダイスな傘だった。AIが内蔵された傘から脳に特殊な信号が送られるらしい。つまりその相手は周りからは見えず、傘をさしている本人しか見えないバーチャルな相手なのだ。
誰と一緒に歩こうか。彼女か、いや彼女は特別な日に。まずは好みの女優、アイドル、あ、初恋のあの子なんかもいいか… 山下は雨の日のデートを満喫した。
7月6日の夜、七夕の明日はあいにくの雨模様、織姫と彦星は残念ながら… と天気予報は伝えている。よし、七夕に彼女と会える。明日のAIAI傘の相手はもう決まっている。
山下と彼女は一本の傘で寄り添いながら思い出の場所を巡った。初めてデートした渋谷のスペイン坂。彼女にプロポーズした赤レンガ倉庫。そして最後のデート場所となった紫陽花寺。すでに車いすに乗っていた彼女をお寺の階段の上までは運べなくて、門の前で写真を撮っただけだっけ。
でも今日は彼女と一緒にお寺の庭を隈なく回れる。雨に濡れたアジサイを彼女は嬉しそうに見ていた、山下はそんな彼女ばかりを見ていた。
家に帰って、彼女とサヨナラして傘を閉じた。しかし小さな彼女が家の中にいた。テーブルの上の写真の動かない彼女。今日は一日、あんなにはしゃいでいたのに。余計に悲しくなった。
年に一度だけ、七夕のこの時期に一度だけ、あの傘をさして彼女とまた紫陽花寺を訪れよう。山下はそう決めた。あのAIAI傘は彼女だけのものにしよう、と。そう思い、再び亡き妻の写真を見ると、彼女の笑顔がちょっとだけ明るくなった気がした。
【おわり】
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